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武部源蔵
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武部 源蔵(たけべ げんぞう)は、生身天満宮(いきみてんまんぐう)の創立者[4]。菅原道真の家来[5]。園部の代官[6]。
生涯
武部左衛門尉治定(後の武部源蔵)は、菅原道真の知行所であった園部(現在の南丹市園部町)で代官を勤めていた[3]。園部は菅原氏代々の知行所で、小麦山に道真の邸殿があった[6]。
896年(寛平8年)秋の朝、道真は私市(現在の小山西町)あたり一面が霧深く立ちこめているのを見て、「谷の間の 霧はさながら海に似て 浪かとまがふ 松風の音」と詠み、家臣であった武部に下された[7]。
901年(延喜元年)2月、道真は大宰権帥として筑前の大宰府へ左遷が命じられた。これを聞いた武部は左遷途上の道真の後を追った。東寺(京都市南区九条町)の正殿で武部と道真は対面した。道真は「菅原の すりおく墨のいつまでも 硯の水の つきぬかぎりは」と詠み、歌に添え道真は松風の硯を武部に渡した[7]。その際、武部は道真の八男・竹内筑前守茂時(後の慶能(けいのう)[8])の養育の内命を受け、園部の地へ連れ帰った[9]。同年春、武部は道真の木像を刻み、小麦山の邸内に密に祠を建てて生祠(いきほこら)と称した[9]。
903年(延喜3年)2月25日、道真が大宰府で死んだことを受け、小麦山の生祠を霊廟(れいびょう)と改めた。武部源蔵が933年(承平3年)6月29日に死去したのちの956年(天暦9年)に慶能や里人らによって霊廟が神社と改められた[8]。
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歌舞伎での源蔵

→詳細は「菅原伝授手習鑑」を参照
日本三大歌舞伎の一つと称される菅原伝授手習鑑の第四段(寺子屋の段)に武部源蔵が登場する。歌舞伎では、源蔵は寺子屋を営む人物として描かれている[3]。
“源蔵は菅家に仕えていたが、同じ奉公人の戸浪(となみ)[1]と恋仲になり、丞相(道真)から勘当される。源蔵と戸浪は仕方がなく寺子屋を営む。源蔵夫婦は流罪となった道真から跡取り菅秀才を託され、自分の子として育てる。そのことが藤原時平に知られ、菅秀才を討つように命じられる[10]。源蔵は寺入りしてきたばかりの小太郎の首を討ち、菅秀才として検視役の松王丸に差し出す[3]”
伝承
- 武部源蔵の墓
武士が、生身天満宮にある墓石を誰の墓か分からず藪の中に移動させたところ、原因不明の病に侵されて死んでしまった。この武士だけでなく、墓石に手をかけて者はみな同じように病にかかったという。その後、墓石は武部源蔵のものだと判明し、園部公園内に移されて盛大な慰霊祭が行われた。だが翌日に武部家の者が病気になったため、墓石を移転した祟りだと、急いで藪の中に戻された。それい以来、この墓石に触れれば即座に病気になると言われ、誰も触らなくなったという[11]。
史跡
- 武部源蔵社 – 生身天満宮境内
- 武部源蔵宝篋印塔 – 生見天満宮境内
- 生身天満宮跡の碑 – 小麦山・園部公園内
- 菅相庵(茶室) – 成田山大阪別院明王院境内。源蔵が寺子屋として使っていた建物が寄進されたものだと、当院が紹介している[12]。
脚注
関連項目
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