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永井直允
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永井 直允(ながい なおちか、延宝元年(1673年) - 享保2年6月28日(1717年8月5日)[1])は、江戸幕府中期の旗本[2]。別名は尚宗(なおむね)、直條(なおなか)、直勇(なおたけ)、直囿(なおその)、通称は大之丞、采女、官位は従五位下讃岐守[3]。父は永井尚政六男・尚申。妻は永見重直の娘[3]。子に永井直丘、永井直令、娘(永井尚方妻)、娘(長田元鋪妻)らがいる。永井直廉や遠山景晋の祖父で[3][4]、遠山景元の曾祖父。
略歴
天和2年(1682年)4月19日、9歳の時に将軍徳川綱吉に初めて御目見をする[3]。
同10年(1697年)閏2月28日に使番になり、12月18日に布衣の着用を許される[3]。
同12年(1699年)10月6日、目付に就任。同14年(1701年)9月19日、火の元改めを勤める[3]。
同15年(1702年)1月11日、長崎奉行に就任。8月11日に従五位下に叙任され、讃岐守を名乗る[3]。
享保2年(1717年)6月28日、死去。享年45。法名は長運。功運寺に葬られ、その後永井家は当寺を代々葬地とする[3]。
脚注
参考文献
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