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永井尚政

江戸時代前期の大名。上総潤井戸藩主、下総古河藩2代藩主、山城淀藩初代藩主。永井家宗家2代。従五位下信濃守、従四位下。江戸幕府 老中。子に永井尚保、永井直右、永井尚春、永井尚申 ウィキペディアから

永井尚政
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永井 尚政(ながい なおまさ)は、江戸時代前期の大名上総国潤井戸藩主、下総国古河藩2代藩主、山城国淀藩初代藩主。永井家宗家2代。

概要 凡例永井尚政, 時代 ...

東京都新宿区の「信濃町」の名は、信濃守となった当時の下屋敷があったことに由来する。

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生涯

永井直勝の長男として駿河国に生まれる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、慶長7年(1602年)には徳川秀忠付の小姓となった。慶長10年(1605年)4月26日、任官して信濃守を称した。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも参陣して功績を挙げたため、御小姓番頭に任じられた。その後も幕府への忠勤に励んで加増を受け、元和5年(1619年)には上総潤井戸に1万5000石を領する大名にまで昇進した。元和8年(1622年)、宇都宮城釣天井事件本多正純が改易された後、老中に選ばれた。寛永3年(1626年)、父・直勝が死去したため、家督と所領である下総古河8万9000石を相続した。寛永9年(1632年)に秀忠が死去すると、北条氏重土井利勝らと協力して、増上寺秀忠の廟を建立するための監督官を務めた。

寛永10年(1633年)、老中職を解任されて山城淀藩10万石へ加増移封された。その後は京都所司代と協力して京都大坂の治安を担った。寛永年間に大規模な飢饉が起こったときは、領民の救済にあたり、島原の乱が起こったときは、京都の守備を命じられた。その後も、江戸城普請や禁裏における普請などで功績を挙げた。正保元年(1644年)11月23日、従四位下にのぼった。明暦4年(1658年)2月28日に致仕。後に入道して信斎と号した。

寛文8年(1668年)9月11日死去、享年82。

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人物

茶の湯を学んだ茶人でもある。

系譜

父母

正室

子女

日向政成の後室も、永井尚政の娘とされる。

参考文献

深谷信子『永井尚政 数寄に通じた幕府の重鎮』、宮帯出版社、2017年。ISBN 978-4-8016-0124-6

関連項目

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