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池玉瀾

日本の画家、書家、詩人 ウィキペディアから

池玉瀾
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池 玉瀾(いけ の ぎょくらん)は、江戸時代中期の文人画家歌人書家[1]。名は町(まち)、別号は松風、遊雅(遊可)、室号は葛覃居、海棠窩[2]、法名は宝誉玉瀾信女[3]。旧姓の徳山玉瀾の名でも知られる[4]池大雅の妻で、夫同様に様々な逸話が残る。

概要 池 玉瀾, 生誕 ...

生涯

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牡丹に竹図(メトロポリタン美術館

京都祇園茶屋・松屋の女亭主の百合旗本の徳山秀栄との間に生まれる[5][6]。玉瀾は幼時から茶屋の常連客だった柳沢淇園に絵を学び、彼の別号である「玉桂」から一字とった「玉瀾」の号を授けられた[7][8][9]。弟子の一人の池大雅を彼女に紹介したのも淇園だった。

玉瀾の夫の大雅は、南画の画風を彼女に教えた[9]。また、夫婦ともに和歌冷泉家より学んだ[7]

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玉瀾による秋の歌二首(18世紀後半)

玉瀾は、当時の既婚女性では一般的だった引眉をしていないことが注目される[10]

大雅は生前、自分の死後に彼女が困窮することがないようにと書画を数多く制作しており、そのため安永5年(1776年)に夫が没した後も、玉瀾は不自由することなく生活を送った[11]。彼女はその8年後の天明4年9月28日(1784年11月10日)に病没した[3]

なお、玉瀾は大雅の葬られた浄光寺ではなく、母の百合が眠る金戒光明寺塔頭西雲院に埋葬されたが、その理由については不詳である[2][12]

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業績

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秋景山水扇面図 (メトロポリタン美術館

フィラデルフィア美術館長アン・ダーノンコートによれば、「18世紀の日本の女性が画家であることは非常にまれだった」[9]。玉瀾と夫の大雅は、作品を作り、金をかけずに生活し、時には作品の合作に専念した[13]。彼女は京都の祇園社の隣の小さな小屋で大雅と一緒に住んでいた。玉瀾は、屏風絵や襖絵、巻物、掛け軸、扇絵などを描いた[1]

祖母の梶子、母の百合、町(玉瀾)の3人で祇園三女として知られ、明治43年(1910年)、3人の歌が『祇園三女歌集』として出版された。時代祭の江戸時代婦人列には、祖母の梶子と共に登場する。

人物・逸話

大雅夫妻の有名な逸話に、大雅が難波へ出かけた際に筆を忘れていったのを玉瀾が見つけるとこれを持って走り、建仁寺の前で追いついて渡すことができたが、大雅は筆を押し頂くと「いづこの人ぞ、よく拾ひ給はりし」と答えて別れ、彼女も何も発言することなく帰宅した、というものがある[14][15]

玉瀾は栄誉や恥辱をものともしない大雅の行いに付き従い、彼が三弦を演奏して歌えば彼女はを弾いて歌った[16]。二人で一日中紙墨に向き合い、音楽や酒を楽しみ、釜や甑が埃をかぶっても落ち着いており、その様は後漢梁伯鸞中国語版の妻・孟光にたとえられた[3][17]。夫婦ともに欲の少ない性格で、他人から謝礼金を受け取っても紙包みを開かぬまま屑籠に入れておき、必要な時にそこから取り出して用いていたという[18]。また、大雅の家に宿泊し、その晩に垢で汚れた甲斐絹布団を提供された客人が、夫妻の部屋を見てみると、大雅は毛氈にくるまり、玉瀾は反故紙の中で眠っていたとも伝わる[19]。和歌を学ぶために夫とともに初めて冷泉家に参上した際、場所柄から、同家の女房らは「玉瀾」という名の美しさからどのような婦人だろうかと待っていたところに、糊の強い木綿の着物を着て魚籠を提げた、裸足の大原女のような姿をした玉瀾が現れたため、人々は大いに驚いたという話も伝わる[20][21]

大坂文人の木村蒹葭堂は、13歳のときの寛延元年(1748年)に大雅と面会したことを後に回想しているが、玉瀾については「年の頃二十二三歳にして顔は丸顔のさして美しといふ程にもあらねど、人並勝れたる面色何処となく気高き処ありて、さすがは百合の娘と思はるるばかりなりし、後年玉瀾女史とその名天下に高く聞え、大雅堂と共に人に称せらるるやうになりたるは、珍しき事と謂ふべし」と振り返っている[22]

作品一覧

さらに見る 作品名, 技法 ...
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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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