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沼間任世

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沼間 任世(ぬま にんせい[3]/ただよ[4][5])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将和泉国綾井城主。越後入道[6][7]、如萍斎[7][注釈 1]。『寛政重修諸家譜』によると清成[1]。子に沼間義清(越後守)[1]、孫に沼間興清(主膳)がいる[2]

概要 凡例沼間 任世, 時代 ...

略歴

和泉国大鳥郡の綾井城(大阪府高石市[9])を居城とした[3]。沼間氏は元は南郡[10]の沼村・野村・別所村(それぞれ岸和田市[11])を本拠とし、任世の時に綾井城に住んだという[12]

元亀2年(1571年)6月、和泉守護代[13]だった松浦氏の当主・松浦光足利義昭から離反した三好義継に連絡をしており、それに伴い、任世とみられる「沼越入」(沼間越後入道)が、義継と行動を共にする松永久秀へ書状を送っている[14][15]。沼間氏は永禄期(15581570年)以前の確かな史料で姿が見えないが[9]、この頃には任世は松浦光に取り立てられていたとみられる[16]

天正3年(1575年[17]に光が死去した後、任世と寺田生家(又右衛門)・松浦家(安大夫)兄弟が共同で和泉支配を行うこととなる[18]。光在世時の松浦氏では「四人之者」と呼ばれる重臣たちが光を支える体制となっており[19]、任世らはその「四人之者」の流れを汲むものとみられる[20]

天正4年(1576年)7月9日、任世は寺田生家や松浦家、佐野在城衆と共に、本願寺周辺で刈田を行うよう織田信長から命じられた[21]。この直後の7月13日、木津川口の海戦に沼間氏の一族が参戦し、任世の子の越後守(義清)や一族の沼間伊賀守・伝内が戦死している[22]。翌天正5年(1577年)の4月頃、任世は住吉城の普請を行った[23]。天正6年(1578年)6月には、任世ら和泉衆が海上警固を行っている様子がうかがえ[3]、同年7月14日、九鬼嘉隆の船団が淡輪に上陸したことを淡輪徹斎・淡輪大和守と共に信長に報告している[24]

また、石山合戦中とみられる[25]ある年の10月、大坂に在陣する織田軍から派遣された「上使」が和泉で乱妨を行うのを止めるのに300貫文必要であるとして、寺田生家・松浦家と連名で南郡に75貫文要求している[26]。この時、大鳥郡や泉郡日根郡にも75貫文ずつ求めたと考えられる[26]

天正8年(1580年)の2月および12月[27]津田宗及の茶会に参加した(『津田宗及自会記』)[28]

天正9年(1581年)、織田信長が和泉で指出を行い、国衆らの知行替えを行ったが、この時任世は信長の朱印状を得るための「筆者銭」を国衆たちから徴収し、安土に赴いている[29][30]

天正11年(1583年)2月、任世は寺田生家や松浦家、真鍋次郎、桑原清輪らと共に羽柴秀吉により大坂へと呼ばれ、中村一氏に属して、根来雑賀粉河勢に当てられることとなった(『中村一氏記』)[31][32]

沼間氏ではこの後、戦死した義清の子(任世の孫)の興清が中村一氏の与力となり、中村家断絶後、徳川秀忠に仕えた[2][33]。以後、その子孫は徳川幕府旗本として続いた[34][33]

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その他

近世の史料で、任世は「和泉半国之触頭」と記されている(「泉邦四県石高寺社旧跡幷地侍伝」)[4][30]

また、応仁の乱の頃の綾井城主として「沼間日向守(日向入道)任世」がいたといわれる[35]。日向守任世は和泉守護・細川有常の軍と高志の浜(高師浜、高石市[36])で衝突した山名軍に味方して、大雄寺に火を放ったという[35]。綾井城はこの日向守任世が応仁年間(14671469年)に築いたともされる[37]

脚注

参考文献

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