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浅賀ふさ
医療社会事業家 ウィキペディアから
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浅賀 ふさ(あさが ふさ、1894年2月17日 - 1986年3月3日)は愛知県出身の医療社会事業家で、日本における医療ソーシャルワーカーの先駆者。米国在住期を経て小栗 将江(おぐり まさえ)と名乗った[3]。
生涯
要約
視点
生い立ち
愛知県半田町(後の半田市)の豪商、小栗富次郎と妻しげの二女・小栗ふさ[4]として1894年(明治27年)に生まれる[1][注釈 1]。小栗家は酒造・海運・金融業等で財をなした家柄で富豪として知られた[1]。13歳で日本女子大学付属高等女学校に入学した後、日本女子大学へ進学[5]。ふさは女性の幸福は結婚や家庭にあるという母親の考え方に反駁していた。長兄・常太郎が三井物産の社員としてニューヨークへ赴任することになると父親に直談判。ふさも同行を許された[5]。1918年(大正7年)12月に渡米。しかし兄は世界情勢の変化により仕事が立ち消えとなり、翌年7月に帰国[5]。ふさは、アメリカに残ることを希望し、兄の計らいでボストン在住のリーランド夫妻(留岡幸助の友人)[6]の支援を受け、アメリカでの滞在を継続することにした[5]。ふさは扁桃腺の摘出手術をきっかけに人に尽くす仕事がしたいと考え、社会事業に関心を持ち、1924年9月にシモンズ大学社会事業大学院に入学した[5]。在学中に、アメリカで最初に病院に医療社会事業を導入したマサチューセッツ総合病院医師のキャボットとの出会いが、医療社会事業家を志すきっかけとなった[5]。その後、ハーバード大学教育大学院で幼児教育を一年間学んだ[5]。
医療ソーシャルワーカーとして
1901年に開設された聖ルカ病院(後の聖路加国際病院)は、当時の日本にはない先進的な医療体制・医療環境を整える病院として知られていた[7]。ふさは病院を設立した同病院院長のトイスラーにニューヨークで面会し、聖ルカ病院に入職することになった[8]。1929年アメリカから帰国し、聖ルカ病院に新たに開設した医療社会事業部に入職した[8]。医療社会事業は、20世紀初頭にイギリス、アメリカ、フランスなどで始まり、当時の日本での取り組みはなく、ふさにより日本で初めて欧米で発展した理念に基づく医療社会事業が導入された[9][7]。医療社会事業部では、チャリティクリニックという貧しい患者を対象とした無料、低額の診療事業が行われた[10]。一定のベッド数が、チャリティクリニックのために確保されていた[10]。 社会事業部は、次第に発展し、スタッフ10人を要する部署となり、1933年には作業治療部がつくられ、リハビリテーションやグループワークにも取り組んだが、戦前の病院社会事業は聖ルカ病院に止まり、他の医療機関への展開はなかった[10]。1938年、ふさは衆議院議員の浅賀長兵衛と結婚して聖ルカ病院を退職。医療社会事業家としての経歴にも終止符が打たれた[11][2]。その後、長兵衛は1945年に死去している[2]。
社会活動
ふさは医療ソーシャルワーカーとして働くと同時に、女性参政権獲得運動にも参加[11]。婦選獲得同盟(発足当初、婦人参政権獲得期成同盟)の東京支部の役員として、市川房枝らと共に活動した[10][8]。女性参政権獲得運動から、母性保護運動も派生して生まれたが、その背景には生活の困窮による母子心中が多発したことがあった[11]。運動は1937年母子保護法の制定として実を結ぶ[11]。ふさはその後も日本における医療社会事業の発展に研究者・教員として貢献しながら、社会活動への参画を続けたが、それはケースワーカーは社会政策への発言者であるという信念に基づくものであった[12]。朝日訴訟では原告を支援する募金活動や署名活動にも積極的に参加し、1961年の第二審では朝日茂の証人として証言した[12]。証言では結核患者の療養援助が不十分である現状を示し、療養適応や更生意欲を阻む生活保護基準であることをケースワークの視点から述べた[12]。
児童局嘱託職員から大学教員へ
1947年、厚生省児童局嘱託としてGHQに対する渉外や児童相談所の指導を行った。傍で児童福祉に関する著作の刊行に携わり、自身も単著を上梓する[13]。1953年には中部社会事業短期大学(後の日本福祉大学)の開学と同時に教員に着任[13]。およそ20年間にわたり奉職した。
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著書
『ソーシャルケースワーク』公衆衛生社、1953年。 NCID:BN13446926。
脚注
参考文献
関連文献
関連項目
関連作品
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