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浅野応輔
日本の電気工学者 ウィキペディアから
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浅野 応輔(あさの おうすけ、1859年4月10日(安政6年3月8日)[1] - 1940年(昭和15年)9月23日)は、明治から昭和時代前期の電気工学者、通信技術者。


経歴・人物
備中国都宇郡茶屋町(現・岡山県倉敷市)に生まれる[2]。浅口郡船穂村の医師浅野意俊の三男[3]。
1881年(明治14年)工部大学校電気工学科(現:東京大学)を卒業し、同年工部大学校教官となる[4]。同校助教授、東京電信学校長兼幹事、逓信省電務局電気試験所(現:電子技術総合研究所)初代所長、逓信技師、電気試験所所長を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学工科大学(現:東京大学工学部)教授となる[4]。その後、早稲田大学教授、早稲田大学工科長を経て1920年(大正9年)早稲田大学理工学部学部長となる[4]。
その間、1893年(明治26年)12月、逓信省電務局電気試験所所長を勤めていた際、電気事業調査のため欧米各国へ派遣され、大西洋横断海底電信線敷設事業に参加した[4]。1895年(明治28年)帰国すると、東京市区改正委員会の嘱託を受け、電気事業取締規則を編成した[4]。その後、大隅-台湾間の海底電信線敷設の設計及び工事に携わり、1897年(明治30年)竣工した[4]。また、1903年(明治36年)には自身が開発した通信機で長崎-台湾間の通信に成功した[4]。
ほか万国電気単本位国際会議学術委員、万国電気工芸委員会日本委員会長、電気学会会長などを務めた[4]。勲二等瑞宝章受章[4]。墓所は多磨霊園。
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栄典
親族
脚注
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