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清水留三郎

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清水留三郎
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清水 留三郎(しみず とめさぶろう、1883年明治16年)4月28日[1] - 1963年昭和38年)4月18日[2])は、日本の衆議院議員憲政会立憲民政党)、外務政務次官

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清水留三郎

経歴

群馬県前橋市出身。群馬県立前橋中学校を経て、1902年(明治35年)に早稲田大学法科を卒業した[1]。その後渡米し、ワシントン大学ミネソタ大学で学び、法学修士の称号を得た[1]。帰国後は関東産業新聞社長、上野新聞社専務、上毛機械合資会社代表社員、合資会社桜組支配人などを務めた[3]

1920年大正9年)、第14回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。第21回に至るまで7回当選を果たし、その間に平沼内閣で外務政務次官を務めた。

戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となる[4]。追放解除後は政界に復帰することはなかった。

その他、東京輸出時計附属品工業組合顧問、生盛薬剤株式会社監査役[5]、南方科学研究会会長などを務めた[6]

著書

  • 『Modern Japan』(海野数馬と共著、1933年、モダンジャパン刊行会)
  • 『保健国策と医薬制度』(1938年、婦人往来社)
  • 『緊迫せる国際事情』(1940年、清談会事務所)

脚注

参考文献

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