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渋川義俊

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渋川 義俊(しぶかわ よしとし)は、室町時代中期の武将守護大名九州探題

概要 凡例渋川義俊, 時代 ...

略歴

応永7年(1400年)、渋川満頼の子として誕生。足利義満から編諱を受け義俊と名乗る。父・満頼が探題職を退いたため、代わって九州探題となる。その交替時期については『史料綜覧』などの応永25年(1418年)交替説、高柳光寿などの応永26年(1419年)交替説、三浦周行などの応永27年(1420年)交替説があるが、川添昭二は満頼の探題としての最後の発給文書などから応永26年交替説をとっている[1]

李氏朝鮮対馬国に侵攻した応永の外寇に対処。

『歴代鎮西志』によると応永30年(1423年)に少弐満貞に攻められ、博多を根拠とすることが困難となり、その貿易商人の支持も失った[1]肥前国山浦城を築いていたが、応永31年(1424年)に筑紫冬門に攻められ、さらに応永32年(1425年)には再び満貞に敗れた[1]。そのため正長元年(1428年)に探題職を従弟・渋川満直に譲り、自らは筑後国酒見城にて隠棲生活を送った。

永享6年(1434年)11月14日、筑後酒見にて死去[1]。享年35[1]

子・義鏡は後に享徳の乱堀越公方足利政知を伴って関東に下向する。また、斯波氏を継承した斯波義廉は孫に当たる。

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脚注

関連項目

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