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溝江長氏

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溝江 長氏(みぞえ ながうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名長澄とも。

概要 凡例溝江 長氏, 時代 ...

略歴

朝倉氏の家臣・溝江長逸の子として誕生する。天正2年(1574年2月19日加賀越前一向一揆により溝江氏は居城の金津城を落とされ、長逸をはじめとする一族30余人が自害に追い込まれるが、長氏は難を逃れ、織田氏に仕えて家を再興させた[1]。長氏は天正10年(1582年)の魚津城の戦いに参加していることが確認され、このころには北陸地方に所領があったと推定される[2]

本能寺の変織田信長が斃れると長氏は羽柴秀吉に仕え、後に秀吉の馬廻となる[3]豊臣政権下では蔵入地の管理も担当し[1]文禄元年(1592年)、朝鮮派兵に際しては肥前名護屋城に駐留、同城二の丸の守護にあたった[2]

慶長3年(1598年)6月、北ノ庄城主となった小早川秀秋与力大名となり[2][3]、同年8月には加増されて越前にて1万773石を領した[2][4]。また、同月に秀吉が死去した際には形見として藤島を受領している[5]

慶長5年(1600年)2月15日、京都の深草にて死去[5]

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その他

  • 竹田川に金津橋(現在の市姫橋)を架けたのは長氏であるという。また、この架橋に対して長束正家から長氏宛ての書状が残っている[2]

脚注

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