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溝江長晴
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溝江 長晴(みぞえ ながはる) は、安土桃山時代の武将・大名。通称は彦三郎。朝倉氏の旧臣であった溝江長氏の子。関ヶ原の戦いで西軍に属したため、戦後は改易されて浪人となり、江戸時代前期に彦根藩士となった。
生涯
慶長5年(1600年)4月8日、父の遺領越前国金津城1万773石を継ぐ。関ヶ原の戦い時には西軍に属して北国口を防備し、浅井畷の戦いに参加するが、本戦より前に丹羽長重とともに前田利長に降伏し、改易されて浪人となった[1]。戦後は旧領復帰を目指し、井伊直政、安藤直次や脇坂安元などの諸大名に、江戸幕府へ取り計らってもらうよう懇願する書状を送っている[1][2]。また、この間には「道悦」(どうえつ)を号し、京都や佐和山城下などに移住した[1]。
元和2年(1616年)に彦根藩主井伊直孝の客分となって近江国坂田郡箕浦村(現在の米原市)に住み[2]、寛永5年(1628年)に正式にその家臣となり500石を給せられ、彦根城下に移った[1][2]。
正保3年(1646年)5月10日、死去[3]。家督は嫡男の長保が家を継ぎ、弟の五兵衛に200石を分知して300石の知行となる。以後、溝江氏は彦根藩士として近代まで続いた[2]。
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脚注
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