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濰水の戦い
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濰水の戦い(いすいのたたかい)は、中国の楚漢戦争の一部で、紀元前204年に発生した漢軍と楚・斉連合軍の戦い。
背景
紀元前204年、漢王劉邦は斉の攻撃を韓信に命じた。一方で劉邦は説客の酈食其を斉に遣わして斉王田広を説得させ、結果、田広は楚への臣従を辞め、漢に降伏することを承諾した。
韓信は軍を率いて東進していたが、黄河の渡河点を渡り切らないうちに、酈食其が田広の説得に成功したという報告を受けた。斉を攻撃する意味がなくなったため、韓信は引き返そうとしていたが、弁士の蒯通(蒯徹)が、「将軍は詔を受けて斉を討つよう命じられています。漢王は別に密使を遣わして斉を降伏させましたが、将軍に進軍の停止を命じる詔はございません。酈生のような一介の儒者が車に座って三寸の舌を振るうだけで、斉の70余城を落としてしまいました。一方、将軍は数万の兵を率い、一年以上かかってようやく趙の50余城を落としました。将軍として数年も戦ってきたのに、あのような卑しい儒者の功績に及ばないというのですか」と進言し、韓信の功名心を煽った。韓信は蒯通の言葉をもっともだと考え、進軍を続行して黄河を渡った。
田広は酈食其の降伏勧告を受け入れた後、歓待して酒宴を開き、漢軍に対する防備を解除していた。韓信はこの機に乗じて、斉の歴下の軍を急襲し、国都の臨淄まで迅速に進攻した。田広は酈食其に欺かれたと誤解し、酈食其を烹刑に処した。そして東の高密へ逃れ、楚に救援を要請した。韓信は臨淄を占領すると、東進して田広を追撃した。救援要請を受けた項羽は、項它を大将に、龍且と周蘭を副将として20万の軍を率いさせ、斉の救援に向かわせた。
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戦争
楚軍は田広と合流して高密に入城し、楚・斉連合軍を編成して濰水の東岸に布陣した。
開戦前、ある者が龍且に、「漢軍は遠くから攻め寄せ、死に物狂いで戦っておりますので、その鋒先は当たるべからざる勢いです。しかし、斉・楚両軍は自国の地で戦っているため、いざとなれば兵士は逃散します。深い堀と高い堡塁を築いて守りを固め、その間に斉王の側近を使者として漢に降った城邑を慰撫させるのです。それらの城邑の者たちは王がまだ健在で楚軍が救援に来たと聞けば、必ずや漢軍に反旗を翻すでしょう。漢軍は二千里も離れた異郷におり、斉の城邑の民が次々と反乱を起こせば、彼らは兵糧を調達できなくなり、戦わずして降伏に追い込むことができます」と献策した。しかし、龍且は「私は以前から韓信という人物を知っている。対処は容易い。斉の救援に来ながら、戦わずして韓信を降伏させたところで、我々に何の功績があろうか。戦って打ち破れば、斉の半分の領土を得られるというのに、どうして戦わないでいられようか」と言って退けた。
高祖4年11月(紀元前203年1月下旬頃)、こうして戦端が開かれ、韓信と龍且は濰水を挟んで陣を構えた。
韓信は夜を徹して1万余りの袋を急造させ、それらに土砂を詰めて濰水の上流を堰き止めた。そして自らは軍の半分を率いて渡河して龍且と交戦し、わざと敗北を装って撤退した。龍且は「もとより韓信が臆病者であることは知っていた」と意気高々に追撃し、自ら先頭に立って濰水を渡った。この時、韓信は上流を堰き止めていた土嚢を破壊させて決壊させたため、突如流れ込んできた大量の水によって龍且の軍の大半は進軍を阻まれ分断された。韓信は直ちに猛烈な反撃を開始し、曹参指揮下の灌嬰、あるいはその麾下の丁礼が龍且を討ち取り、周蘭を捕虜とした。この状況を目にした東岸の楚軍は潰走し、田広も軍を返して逃げ去った。韓信は敗走する敵軍を城陽まで追撃し、田広と楚軍の残存兵のことごとくを捕虜とした。田広は漢に処刑されたと見られる。
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戦後
田広の叔父であり斉の相国の田横は田広の死を聞くと自ら斉王を名乗り、梁の地で中立を保っていた彭越のもとに身を寄せた。韓信は斉全土を平定し、自ら「假王(仮の王)」となることを願い出たため、劉邦によって斉王に封じられた。この漢の勝利は項羽に対する戦略的包囲網を形成し、楚漢戦争の転換点となった。
参考文献
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