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三秦戦役

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漢による三秦平定の戦いは、紀元前206年8月から紀元前205年6月にかけて行われた、漢王劉邦関中を攻略した戦役楚漢戦争の序盤戦にあたる。

概要 三秦戦役, 交戦勢力 ...

「三秦」とは、項羽によって関中に封じられた3人のの降将、雍王章邯、塞王司馬欣、翟王董翳、および3人の封地である陝西省西安を中心とした一帯「関中」を指す。史料では「還定三秦」とも表記され、これは本来劉邦が領有するはずだった三秦の地の奪還と平定を意味する。

背景

紀元前206年正月、項羽は范増と謀って懐王(後の義帝)の「先に関中に入った者をその地の王とする」という約に半ば背き、「漢中も関中の地である」として劉邦を漢王に封じて・蜀・漢中の地を統治させた。一方、秦の故地である関中には秦の降将の章邯、司馬欣、董翳の3人を分割して封じ、劉邦に対する牽制とした。

なお、かつて項羽は20万余りの秦の捕虜を生き埋めにして虐殺しており、項羽に降伏してその原因となったばかりか生き延びて王に封じられた3人を秦の民衆は憎悪していた。

前段階

項羽の処遇に劉邦は怒り、配下たちも反逆を勧めたが、多くの書籍から知識を深めていた蕭何は「我々の兵は項羽に及ばず、戦えば百戦百敗です。漢中に王として留まり、巴蜀の地を治め、力を蓄えてから三秦の地を奪還すべきです」と進言し、劉邦はこれに従った。

漢中に入った劉邦であったが、諸将は故郷を懐かしみ、逃亡する者が後を絶たなかった。韓信(当時は治粟都尉)もその一人で逃亡したが、蕭何は韓信を連れ戻し、劉邦に「韓信は国士無双です。天下を争うのであれば、韓信をおいて適任はいません」と強く推薦した。劉邦は蕭何を意見を聞き入れ、韓信を大将軍に任命した。

劉邦は韓信の才略に大いに感心し、その三秦平定の計策に従い、諸将に任務を割り振った。蕭何は漢中に留まり、兵糧や物資の補給を担当し、戦争の準備を整えた。この頃、張良の策略によって項羽の注意は田栄に向けられていた。

戦争

要約
視点

司馬遷史記』の各篇の該当部分を記述する。精確に経過を解説するには時系列が推測となるため、列記に留める。なお、雍の都城廃丘、塞の都城は櫟陽、翟の都城は高奴である。

高祖本紀

紀元前206年8月、劉邦は軍を率いて都城の南鄭を出発し、故道[1]を通って章邯を急襲した。章邯は陳倉で迎え撃ったが敗れ、退却した。その後、章邯は好畤で戦いを仕掛けるもまたも敗北し、廃丘に撤退した。劉邦は雍の地を平定し、東進して咸陽にまで至った。軍を率いて廃丘を包囲している間、諸将を各地に遣わして隴西・北地・上郡を平定させた。

紀元前205年、司馬欣、董翳が降伏した。同年正月に章邯の弟・章平を捕虜とし、6月に廃丘は降伏し、章邯は自害した。

曹相国世家

曹参は下辯・故道を攻め落とし、さらに雍・斄を攻めた。好畤の南で章平の軍を破り、好畤を包囲して壤郷を奪取した。さらに壤東と高櫟で三秦の軍を撃破した。再び章平を包囲したが、章平は好畤の包囲から脱出して逃走した。その後、趙賁と内史保の軍を破り、東進して咸陽を占領した。その後、兵を率いて景陵を20日間守備した。そこへ章平らが攻撃を仕掛けてきたが、曹参は出撃してこれを大いに破った後、章邯が籠城する廃丘を包囲した。

絳侯周勃世家

周勃は槐里[2]と好畤を攻撃し、最大の軍功を立てた。咸陽で趙賁と内史保の軍を攻撃し、再び最大の軍功を立てた。その後、北方の漆を攻撃し、章平・姚卬の軍を撃破した。西方の汧を平定し、帰途に郿・頻陽を攻め落とした。章邯が籠城する廃丘を包囲し、西の県丞の軍を破り、盜巴の軍を撃破して上邽に進攻した。

樊酈滕灌列伝

樊噲は別動隊を率いて白水の北で西の県丞の軍を攻撃し、さらに雍の南で章邯の軽車騎兵を破った。劉邦に従って雍・斄の城を攻撃し、先陣に立って好畤で章平の軍を攻撃した。敵陣に突入し、1人の県令と県丞を斬首し、首級11人、捕虜20人を挙げ、郎中騎将に昇進した。続いて章邯の車騎兵を壤東で撃退し、将軍に昇進した。趙賁の軍を攻撃し、郿、槐里[2]、柳中、咸陽を陥落させる、章邯が籠城する廃丘を水攻めして降伏させるなどの功績を挙げ、最大の軍功とされた[3]

酈商は別動隊を率いて北地と上郡を平定し、章邯配下の将軍を焉氏で破り、周類の軍を旬邑で撃破し、蘇駔の軍を泥陽で打ち破った。

灌嬰は櫟陽を攻め落とし、司馬欣を降伏させた。軍を引き返して廃丘で章邯を包囲したが、陥落させることはできなかった。

傅靳蒯成列伝

靳歙は別動隊を率いて西進し、隴西で章平の軍を撃破し、隴西の6県を平定した。その指揮下の兵士が、車司馬と候をそれぞれ4人ずつ、騎長を12人討ち取った。

高祖功臣侯者年表

章邯の軍は渭水沿いの道を塞ぎ、劉邦は進軍を断念して撤退を考えていた。しかし、趙衍が「別の進軍路がある」と進言した。この進言通りに進軍したところ、その道は通行可能であり奇襲するのに役立ったため、これを趙衍の功績とされた。

他、同書でこの戦役において功績を立てたと挙げられている人物は、傅寬丁復呂沢、郭蒙、董渫、朱軫、蠱逢、呂博国、搖毋余、耏跖、周定、戎賜、単寧、丙倩、丁義、華無害、周緤、丁禮、劉到、紀成

影響

関中を平定した劉邦は戦国時代の秦の本拠地をほぼ手中に収めた。これは始皇帝六国を滅ぼして天下統一を成し遂げた時の最低限の基盤を得たことを意味し、漢が再び天下統一を成し遂げる根底を確立した。

脚注

参考文献

関連項目

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