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烏丸光亨

幕末の公家、明治期の華族 ウィキペディアから

烏丸光亨
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烏丸 光亨(からすまる みつゆき、1865年3月4日(元治2年2月7日[1])- 1909年明治42年)12月9日[1])は、幕末公家、明治期の華族伯爵、幼名・紀伊佐丸[2]、旧名・亨二郎[1]

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烏丸光亨

経歴

山城国京都(現京都市上京区)で、公家烏丸光徳の二男として生まれる[1][3]慶応3年8月26日1867年9月23日)従五位下に叙され、明治3年1月12日1870年2月12日)に修学中として願いにより辞した[2]

父の死去に伴い、1873年10月13日に家督を継承[1]1884年7月7日、伯爵を叙爵した[4]。奇抜な行動で知られ「華族中の奇人」と称されたものの詩文や書に才能を発揮したという[5]。実業界に入った[6]

1909年12月、日本赤十字社病院で肝臓癌により死去した[6]

著作

校閲
  • 東光庵晋哉著『運勢学秘事全集皆伝 : 禍福大鑑 占秘録』天真館、1910年。

親族

  • 母 久世隨姫(よりひめ、久世通理三女)[1][2]
  • 妻 烏丸操子(みさこ、勘解由小路資生六女)[1][3]
  • 長男 烏丸光大(伯爵、掌典)[1][3]妻は池田詮政の次女。その娘・紀子の夫は佐々木八十八の三男迪怜。
  • 長女 烏丸花子(権掌侍。烏丸尊弘の妻)[1][3] 入婿の尊弘(1878年生)は、富山県出身の灸術師(前仏角平の二男)で、家伝の灸術を研究した[7]。娘婿に男爵島津長丸の長男・忠丸、築地の魚商・田口辰三の長男・篤一郎[8]
  • 三男 七条光明七条信義養子)[1][3]

脚注

参考文献

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