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無政府時代 (イングランド)
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無政府時代(むせいふじだい、英:The Anarchy)とは、1138年から1153年にかけてイングランドおよびノルマンディーで発生し、法と秩序の広範な崩壊をもたらした内戦を指す。 この争いは、ウィリアム・アデリン(ヘンリー1世碩学王の唯一の嫡男)が1120年のホワイト・シップの沈没事故で死亡したことにより引き起こされた王位継承戦争であった。 ヘンリー1世は娘の皇后マティルダを後継者とするよう努めたが、貴族の支持を完全には得られなかった。1135年にヘンリーが死去すると、その甥であるスティーブンが、弟で後にウィンチェスター司教になることとなるヘンリー・オブ・ブロワの助けを得て、王位を奪取した。スティーブンの治世初期には、反乱を起こしたイングランド貴族やウェールズの指導者、スコットランドからの侵攻軍との激しい戦いが続いた。1139年、イングランド南西部で大規模な反乱が起こると、マティルダは異父兄のグロスター伯ロバートと共にイングランドへ上陸した。
内戦初期には、いずれの陣営も決定的な優位を得られなかった。マティルダはイングランド南西部およびテムズ・バレーを掌握した一方で、スティーヴンは南東部の支配を維持した。その他の多くの地域は、どちらの陣営にも属さない諸侯が支配していた。この時代の城郭は防御力が高く、戦闘は包囲戦、略奪、小競り合いといった消耗戦が中心となった。軍勢の主力は騎士と歩兵からなり、その多くが傭兵で構成されていた。1141年、スティーブンはリンカーンの戦いで捕らえられ、彼の支配力はほぼ全土で崩壊した。マティルダは女王としての戴冠を試みたが、ロンドン市民の反発を受けて退却を余儀なくされ、まもなくしてロバート伯もウィンチェスターで敗北し、スティーブン側に捕えられた。両者は捕虜交換に合意し、スティーヴンとロバートがそれぞれ釈放された。1142年、スティーヴンはオックスフォード包囲戦でマティルダをもう少しで捕らえかけたが、彼女はオックスフォード城からテムズ川を渡って脱出に成功した。
戦争はさらに11年間続いた。マティルダの夫であるアンジュー伯ジョフロワ5世は、1143年に彼女の名のもとにノルマンディーを制圧したが、イングランドではどちらの側も決着をつけられなかった。北部およびイースト・アングリアでは反乱貴族の権力が拡大し、戦闘地域では大規模な荒廃が進んだ。1148年、マティルダはノルマンディーへ戻り、以後の戦闘は長男のヘンリー・フィッツエンプレスが指揮することとなった。1152年、スティーヴンは長男ウスタシュを王位継承者として教会に承認させようとしたが、教会側はこれを拒否した。1150年代初頭には、多くの諸侯および教会が戦争疲れを感じており、長期的な和平交渉を望むようになっていた。
1153年、ヘンリー・フィッツエンプレスは再びイングランドへ侵攻したが、いずれの陣営も本格的な戦闘を望まず、限定的な戦闘にとどまった。両軍はウォリングフォード城で対峙したが、教会の仲介により和平が成立し、決戦は回避された。その後、スティーブンとヘンリーは和平交渉を開始したが、そのさなかに長男ウスタシュが病死し、スティーブンの後継者が不在となった。最終的に結ばれたウォリングフォード協定により、スティーブンは王位を保持したまま、ヘンリーを後継者とすることが定められた。 スティーブンは王国全土の再掌握を進めたが、1154年に病没し、ヘンリーがヘンリー2世として戴冠し、アンジュー朝の初代イングランド王となった。
この内戦は、中世の戦争としても特に破壊的なものとみなされており、当時の年代記作者はこの頃「キリストと聖人たちは眠っていた」と記している。ヴィクトリア朝時代の歴史家たちは、この混乱の時代を「無政府時代(The Anarchy)」と呼んだが、現代の歴史家たちはこの表現の正確性に疑問を呈している[1]。
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混乱の発端
要約
視点
ホワイト・シップ号
無政府時代(The Anarchy)の発端は、イングランドとノルマンディーにおける王位継承危機にある。11~12世紀の北西フランスは、複数の公爵と伯爵により支配されており、彼らはしばしば重要な領地を巡って争っていた[2]。1066年、そのうちの1人であるノルマンディー公ギヨーム2世(のちのウィリアム征服王)が、裕福なアングロ・サクソン人のイングランド王国への侵攻を行った。彼はその後も南ウェールズおよび北イングランドへ勢力を拡大していった。彼の死後、領土の分割と支配権を巡ってその子供たちが度々争いを起こした[3]。息子のヘンリー碩学王は、兄ウィリアム赤顔王の死後に王位を掌握し、長兄ロベール短袴公が治めていたノルマンディー公国をも攻略した。彼はタンシュブレーの戦いで兄の軍を破っている[4]。ヘンリーは、唯一の嫡出子である17歳のウィリアム・アデリンに領土を継がせる意図を持っていた[5]。
1120年、そのホワイトシップ号がノルマンディーのバルフルールからイングランドへ向かう途中で沈没するという事件が発生した。約300人の乗客が死亡し、ウィリアム・アデリンもその中に含まれていた[6]。[nb 1]。ウィリアム・アデリンの死により、イングランド王位の継承問題が不透明となった。当時の西ヨーロッパでは、継承法は未だ確立されていなかった。一部のフランス領では、長男がすべての称号を受け継ぐ男系長子相続(primogeniture)が普及しつつあった[8]。しかしノルマンディーやイングランドでは、領地を分割する伝統が残っており、長男が本家の土地を、弟たちは新たに獲得された土地や副次的な所領を受け取るという慣習が存在していた[8]。さらに、過去60年間にわたる不安定な継承がこの問題を一層複雑にした。平和裏に行われた継承は一度もなかったのである[9]。
ウィリアム・アデリンの死後、ヘンリー1世に残された唯一の嫡出子は娘のマティルダのみであったが、この時代において女性の継承権は未だ不明確だった[10]。ヘンリーは再婚相手としてアデルイザ・オブ・ルーヴァンを迎えたものの、嫡子が増える見込みは次第に薄れ、マティルダを後継者とする決断を固めていった[11]。マティルダはかつて神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚しており、これにより「皇后」の称号を名乗った。彼の死後、1128年にマティルダはアンジュー伯ジョフロワ5世と再婚した。彼の領地アンジュー伯領はノルマンディーと接していたのであるが[12]、ジョフロワはノルマン貴族たちにとって長きにわたって敵であるアンジューの支配者であり、極めて評判が悪かった[13]。同時に、ヘンリー1世がを賄うために国内で課していた重税も各方面の不満を高めていた[14]。それでも王のカリスマ性と威信によって表立った反乱は抑えられていた[15]。
ヘンリーはマティルダへの支持を確実なものにすべく、イングランドとノルマンディーの廷臣らに1127年、1128年、1131年と繰り返し忠誠の誓いを立てさせた。誓いの内容は、マティルダを王位継承者と認め、彼女の子孫を次代の正当な支配者とみなすというものであった[16]。この誓いにはスティーブンも加わっていた[17]。しかし晩年になるにつれ、ヘンリーとマティルダ夫妻との関係は次第に悪化した。マティルダとジョフロワは、自分たちがイングランド貴族から本当に支持されていないのではと疑い始め、1135年にはヘンリーに対してノルマンディーの王城をマティルダに譲渡するよう提案した。加えてノルマン貴族たちに即座に忠誠を誓わせるよう要求した[18]。しかしヘンリーは激怒してこれを拒否した。これは、ジョフロワが正式な継承前にノルマンディーを掌握しようとするのではないかとの懸念があったためと考えられている[19]。その矢先、南ノルマンディーで新たな反乱が勃発し、ジョフロワとマティルダは反乱軍支援の名目で武力介入を行った[8]。この最中、ヘンリー1世は急病を患い、リヨン=ラ=フォレ近郊で死去した[13]。
王位継承

ヘンリー1世の死後、王位を継承したのはその娘であるマティルダではなく、スティーブンであり、これが内戦の原因となった。スティーブンは、フランス北部の有力伯であったエティエンヌ2世と、アデル(ウィリアム征服王の娘)との子であり、マティルダとはいとこ同士であった。彼の両親はヘンリー1世と同盟を結んでおり、土地を持たない末子だったスティーブンは王の従者として宮廷に仕え、遠征にも従軍し、見返りとして土地を与えられ、さらに1125年にはマティルド・ド・ブローニュと結婚した[20]。彼女はブローニュ伯の唯一の相続人であり、重要な大陸港であるブローニュ=シュル=メールやイングランド北西部および南東部に広大な領地を有していた[21]。1135年までにスティーブンはアングロ=ノルマン社会で地位を築いており、弟のヘンリーもまた高位聖職者となり、ウィンチェスター司教および王に次ぐ国内第2の富豪となっていた[22]。弟ヘンリー司教はノルマン王たちによる教会権限の侵害を撤回させたいと考えていた[23]。
ヘンリー1世の死の報が広まった際、多くの王位請求者はすぐに行動できる状況にはなかった。ジョフロワ伯とマティルダはアンジューにおり、皮肉にも王軍に対する反乱の支援に回っていた。そこにはグロスター伯ロバートなどマティルダの支持者も含まれていた[8]。多くの貴族たちは王の埋葬までノルマンディーに留まる誓いを立てていたため、イングランドへ戻ることができなかった[24]。ジョフロワとマティルダは好機と見てノルマンディー南部へ進軍し、要所の城をいくつか占拠したが、そこから進むことはできなかった[25]。一方、スティーブンの兄であるティボーはブロワに滞在していた[26]。スティーブンはブローニュに近い場所にいたため、訃報を聞くとすぐに軍を率いてイングランドへ渡った。グロスター伯ロバートはドーヴァーとカンタベリーの港に守備隊を置いており、一説にはスティーブンの上陸を拒んだとも伝えられる[27]。それでもスティーブンは12月8日頃にはロンドン近郊の自身の領地に到着し、その後1週間で王権掌握を進めた[28]。
ロンドン市民は伝統的に王を選ぶ権利を主張しており[要説明]、特権の拡大を期待してスティーブンを王と認めた[29]。弟ヘンリー司教は教会の支持を取り付け、スティーブンはウィンチェスターへ進軍した。そこでロジャー・オブ・ソールズベリー(大法官でもあった)が王室財政の管理権を引き渡した[30]。12月15日、スティーブンが教会の自由を保証する見返りとして、カンタベリー大司教と教皇使節はその王位継承を承認した[31]。スティーブンはかつてマティルダの王位継承を支持する誓約をしていたが、ヘンリー司教はこの誓約が王国安定のための便宜的措置にすぎず、混乱の回避こそが重要であると主張した[32]。さらに、ノーフォーク伯ヒュー・ビゴッドが、ヘンリー1世が臨終の際にスティーブンを後継に指名したと証言した[32]。[nb 2]。スティーブンの戴冠式は12月26日、ウェストミンスター寺院で執り行われた[34]。[nb 3]
一方、ノルマン貴族たちはル・ヌブールに集まり、ティボーを王に擁立する案を議論した[36]。彼らは、ティボーが征服王の孫としてスティーブンより年長であり、マティルダよりも適任であると主張した[26]。ティボーは12月21日にリジューで貴族やロバート伯と会談したが、その最中に翌日スティーブンの戴冠式が予定されているという報せが届いた[37]。ティボーは一旦王位擁立に同意したが、すぐに支持を失った。貴族たちはイングランドとノルマンディーの分裂を望まず、スティーブン支持へ転じた[38]。スティーブンはティボーに金銭的補償を与え、ティボーもブロワに留まり弟を支持した[39][nb 4]。
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戦争への道
要約
視点
新政権(1135年 - 1138年)
スティーブンは戴冠直後、ただちにイングランド北部への介入を迫られた[33]。スコットランド王デイヴィッド1世は、ヘンリー1世の最初の王妃の兄弟であり、マティルドの母方の叔父でもあったが、ヘンリーの死去を知るや北部イングランドに侵攻し、カーライル、ニューカッスル、その他の重要拠点を占領した[33]。当時、イングランド北部は係争地であり、スコットランド王は伝統的にカンバーランドの領有を主張していた。さらにデイヴィッドは、かつてのアングロ・サクソン貴族ノーサンブリア伯ウォルシオフの娘との婚姻により、ノーサンブリアに対する請求権も主張していた[41]。スティーブンは軍を率いて北上し、ダラムにてデイヴィッド王と対面した[42]。両者は協定を結び、デイヴィッドはカーライルを除く大半の占領地を返還する代わりに、息子のヘンリー王子がイングランド国内に持つ所領(ハンティンドン伯領を含む)を保証された[42]。
南へ戻ったスティーブンは、1136年のイースターに初の王室会議をウェストミンスターで開催した[43]。会議には多くのアンジュー=ノルマン貴族や教会高位聖職者たちが集まった[44]。スティーブンは新たな王室勅書を発し、教会に対する従前の約束を確認し、先王ヘンリーの王室森林に関する政策を撤廃し、王室司法制度における乱用を是正する旨を誓った[45]。彼は自らをヘンリー1世の政策の正統な継承者として描き、既存の7つの伯領を従来の保有者に再封した[46]。イースターの宮廷は豪奢な催しであり、多額の費用が衣装や贈答品、饗宴に費やされた[47]。スティーブンは列席者に土地や恩典を下賜し、多くの教会財団にも土地と特権を与えた[48]。スティーブンの即位は、なお教皇による承認を必要としていた。弟のヘンリー司教は、兄のティボー伯およびフランス王ルイ6世からスティーブンへの支持を取り付けることに成功した。ルイ6世にとってスティーブンは、フランス北部におけるアンジュー勢力への対抗手段として有用な存在であった[49]。ローマ教皇インノケンティウス2世は、同年中に書簡をもってスティーブンを王として承認し、スティーブンの顧問らはその書簡の写しをイングランド中に流布して正統性を広めた[50]。

スティーブンの新王国には、各地で問題が噴出していた。1136年1月のルクールの戦いでウェールズ側が勝利し、同年4月にはリチャード・フィッツギルバート・ド・クレアが待ち伏せ攻撃を受けて討たれると、南ウェールズは反乱状態となり、1137年には東グラモーガンから始まり南部一帯に広がった[51]。オウェイン・グウィネズとグリフィズ・アプ・リースは、カーマーゼン城を含む広大な地域を制圧した[41]。スティーブンは、リチャードの兄ボールドウィンと、ロバート・フィッツハロルドをウェールズに派遣して鎮圧を試みたが、いずれも大きな成果を上げることはできず、1137年末には反乱制圧の試みを断念した模様である。歴史家デイヴィッド・クラウチは、スティーブンがこの頃には「実質的にウェールズから手を引いた」としている[52]。一方、スティーブンは南西部におけるボールドウィン・ド・レッドヴァースおよびロバート・オブ・バンプトンによる二つの反乱を鎮圧した。ボールドウィンは捕らえられたが釈放され、ノルマンディーへ渡って王への批判を強めていった[53]。
アンジュー伯ジョフロワ5世は1136年初頭にノルマンディーへ侵攻し、短期間の休戦を挟んで同年末にも再侵攻を行い、領土の保持ではなく略奪と焼き討ちを目的とした作戦を展開した[54]。イングランド情勢によりスティーブンは自ら出陣できず、ノルマンディー防衛は代理人として任命されたウスター伯ワレランと、兄のティボー伯が担当した[55]。スティーブン自身がノルマンディーに渡ったのは1137年であり、その際にルイ6世およびティボーと会談し、ヘンリーの仲介のもと、アンジュー勢力に対抗するための非公式な地域同盟を結んだ[56]。この協定の一環として、ルイ6世はスティーブンの息子ウスタシュをノルマンディー公として承認し、ウスタシュはフランス王に臣従の礼をとった[57]。一方、1135年末にジョフロワが占領したノルマンディーとアンジューの境界にあるアルジャンタン地方の奪還には失敗した[58]。スティーブンは再征服のため軍を招集したが、スティーヴンが雇ったフランドル人傭兵部隊(ギヨーム・ディープルが指揮)と現地ノルマン貴族との間で内部衝突が発生し、軍は分裂[59]。ノルマン諸侯は王を見限り離反し、スティーブンは作戦を中止せざるを得なかった[60]。その後、再度ジョフロワとの間に休戦協定が結ばれ、スティーブンは国境の平穏と引き換えに、年2000マークの支払いを約した[54][nb 5]。
スティーブンの治世初期の評価は分かれる。肯定的には、彼は北部国境を安定させ、ジョフロワの侵攻を抑え、フランス王ルイ6世と平和を保ち、教会とも良好な関係を維持し、多くの貴族からの支持を得ていた[63]。しかし同時に、北部イングランドは既にデイヴィッドとその息子ヘンリーの支配下にあり、ウェールズは放棄され、ノルマンディーも戦乱で不安定化していた。また、多くの貴族はスティーブンから期待していた土地や称号を与えられず、不満を抱いていた[64]。さらに財政難も深刻であり、ヘンリー1世が遺した潤沢な財宝は、スティーブンの華美な宮廷運営や、イングランドおよびノルマンディーでの傭兵維持費により、1138年までに底を尽きていた[65]。
初期の戦闘(1138年 - 1139年)
1138年、複数の戦線で戦闘が勃発した。第一に、グロスター伯ロバートがスティーブン王に叛旗を翻し、イングランドにおける内戦が本格化したのである[65]。ロバートはヘンリー1世の庶子であり、マティルダの異母兄で、ノルマンディーとグロスター伯領を有する最有力のアンジュー=ノルマン貴族の一人であった[66]。 同年、彼はスティーブンへの忠誠を破棄し、マティルダへの支持を表明。これにより、ケントやイングランド南西部で広範な反乱が発生したが、ロバート本人はノルマンディーに留まっていた[67]。マティルダ自身は1135年以降、自身の王位請求を積極的に主張してこなかったが、1138年の開戦においては、むしろロバートが主導的な役割を果たしたと言える[68]。フランスでは、ジョフロワ伯がこの機に乗じてノルマンディーへ再侵攻した。さらに、スコットランド王デイヴィッド1世も再びイングランド北部へと軍を進めた。彼は姪にあたるマティルダの王位請求を支持すると宣言し、ヨークシャーへと進軍した[69][nb 6]。
スティーブンはこれらの反乱および侵攻に迅速に対応した。彼はノルマンディーよりもイングランド国内の情勢を重視し、妻マティルドをケントへ派遣してブローニュからの艦隊や物資を投入し、ロバートの支配下にあった港湾都市ドーバーの奪還に当たらせた[66]。一方で、少数の王室騎士部隊はスコットランドとの戦闘に向かい、同年8月には、ヨーク大司教サースタンが指揮するイングランド軍が、スタンダードの戦いにおいてデイヴィッド軍を撃破した[69]。しかしこの勝利にもかかわらず、デイヴィッドは依然としてイングランド北部の大半を占領し続けた[69]。スティーブン自身は西方へと進軍し、グロスターシャー奪回を目指した。彼はまずウェールズ辺境伯領方面に進撃し、ヘレフォードおよびシュルーズベリーを制圧。続いて南下してバースに達した[66]。 しかし、ブリストルは要塞化されすぎており、スティーブンは攻略を断念して周辺地域の略奪にとどめた[66]。反乱軍はロバート伯が支援に来ることを期待していたようだが、ロバートはこの年を通してノルマンディーに留まり、マティルダに対し渡英しての行動開始を説得することに専念していた[70]。ドーバーはその後、王妃マティルドの軍に降伏した[71]。
スティーブンのイングランド国内における軍事行動は順調に進展しており、歴史家デイヴィッド・クラウチはこれを「第一級の軍事的成果」と評している[71]。スティーブンはこの軍事的優位を活かし、スコットランドとの和平交渉に臨んだ[71]。王妃マティルドが交渉役として派遣され、スティーブンとデイヴィッドとの間でダラム条約が締結された。その結果、ノーサンブリアおよびカンバーランドは、デイヴィッドおよびその息子ヘンリーに与えられる代わりに、両者はスティーブンへの臣従と国境の平和維持を誓約することとなった[69]。ただし、この措置には問題もあった。強大な勢力を誇るチェスター伯ランルフは当時カーライルおよびカンバーランドの統治権を古来より有していると自負しており、これらをスコットランド側に与える決定には強く不満を示した。この不満は、以後の戦争に長期的な影響を及ぼすこととなる[72]。
戦争準備(1139年)

1139年までに、ロバートとマティルダによるイングランド侵攻は差し迫った現実となっていた。ジョフロワとマティルダはノルマンディーの大部分を掌握しており、ロバートと共に、年初から海峡横断遠征のための兵力動員を進めていた[73]。加えてマティルダは教皇庁にも上訴を行い、自身のイングランド王位継承権の正当性を主張した。教皇は既にスティーブンの即位を承認していたためこれを覆すことはなかったが、マチルダの視点ではスティーブンの即位に争いがあることを示す材料にはなった[74]。
一方で、スティーブンは開戦に備え、多数の伯爵領を新設した[75]。ヘンリー1世の治世下では伯爵領はわずかしか存在せず、しかも儀礼的な意味合いが強かった。スティーブンはこれを大幅に増加させ、自らの忠実な配下、特に有能な軍事指揮官たちを任命し、王国の要衝には新たな土地と行政権を与えて配置した[76][nb 7]。スティーブンの目的は、忠臣への報酬という意味に加え、脆弱な地域の防衛強化という側面もあった。彼は主要な顧問であるワレランの助言を強く受けており、このワレランは双子の兄弟であるレスター伯ロバートとともにスティーブン政権の中核を担っていた。彼らの一族は、この新設された伯爵領の大半を授かっている[78]。1138年以降、スティーブンは彼らにウスター、レスター、ハートフォード、ウォリック、ペンブルックの各伯爵位を授与した。これにより、北部のカンバーランドおよびノーサンブリアにおけるヘンリー王子との同盟と相まって、混乱の中心である南西部とチェスターとの間に、防衛的な「緩衝地帯」が形成された[79]。
またスティーブンは、自らの支配に脅威を与える恐れのある一部の司教たちを排除する措置にも踏み切った。ヘンリー1世の治世下では、王室政務を実質的に取り仕切っていたのはソールズベリー司教ロジャーであり、彼の甥たち、すなわちリンカーン司教アレグザンダー、イーリー司教ナイジェル、さらに息子のロジャー・ル・ポエル(大法官)といった一族も政権中枢にあった[80]。これらの司教は、聖職者であると同時に広大な領地を持つ世俗領主でもあり、この頃自らの軍備を拡充し、城郭の新築にも着手していた。これを受けて、スティーブンは彼らがマティルダ側に寝返る可能性を懸念するようになった。加えて、ワレラン・ド・ボーモンはこの一族の権勢を快く思っておらず、彼らを排除したいと望んでいた[81]。1139年6月、スティーブンはオックスフォードで王廷を開き、その際、リッチモンド伯アランとロジャーの従者との間で争乱が勃発した。これは、スティーブンが意図的に引き起こした事件であった可能性が高い[81]。 スティーブンはこの機に乗じて、ロジャーおよび他の司教たちに対し、イングランド国内に保有するすべての城を引き渡すよう命じた。さらに、ロジャーらを逮捕し、ナイジェル司教のみがデヴィジズ城に逃れた[82]。しかしナイジェルも、ロジャー・ル・ポエルの処刑をほのめかされて降伏した。こうして司教たちの軍事力は除去された[81][nb 8]。この措置により、司教たちの軍事的脅威は排除されたものの、高位聖職者、特にスティーブンの弟であるウィンチェスター司教ヘンリーとの関係には悪影響が及んだ可能性がある[84][nb 9]。こうして両陣営は、全面戦争の準備を整えつつあった。
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戦争
要約
視点
技術と戦術
この内戦におけるアングロ=ノルマン貴族間の戦争は、敵の領土を制圧するために襲撃や城の占拠を繰り返す消耗戦型の軍事作戦に特徴づけられた。最終的な勝利は、ゆっくりとした戦略的な優勢を通じて得られた[86]。時折会戦も行われたが、それは非常に危険と見なされており、慎重な指揮官たちは通常これを避けた[86]。封建制に基づく動員も行われたが、ノルマン式戦争は伝統的に、大量の現金を調達・使用することに依存していた[87]。12世紀前半には戦費が大幅に増加しており、十分な現金の備蓄は作戦の成否にとってますます重要になっていた[88]。
スティーヴンとマティルダの宮廷は、それぞれファミリア・レギスと呼ばれる小規模な騎士団を中心に編成されており、この中核部隊が軍事作戦における司令部を形成していた[89]。当時の軍隊は前世紀と似た編成で、装甲をまとった騎士の騎兵部隊と歩兵部隊から構成されていた[90]。騎士たちは長い鎖帷子、兜、すね当て、腕の防具を着用していた[90]。武器は剣や槍が一般的で、またクロスボウ兵の数が増加しており、従来の短弓に加えて時折ロングボウも使用された[90]。これらの部隊は封建的な軍役により一時的に動員されたものであるか、あるいは傭兵であり、後者は費用こそかかったが、動員期間が柔軟で技能にも優れていた[91]。
ノルマン人は10〜11世紀に城郭を発展させ、1066年のイングランド征服後にはその建設が大規模に行われた。大半はモット・アンド・ベーリーやリングワークといった土と木材による簡易構造で、現地の労働力と資源により素早く築かれ、防御にも優れていた。ノルマン貴族たちは、これらの城を戦略的に川や谷沿いに配置し、人口・交易・地域支配を確保する術に長けていた[92]。内戦以前の数十年間で、石造城郭が徐々に導入され始めていたが、これは熟練した職人による高コストかつ長期間の建設が必要であった。これらの正方形の天守には後年の投石兵器に対する脆弱性があったが、1140年代に用いられたバリスタやマンゴネルは、後世のトレビュシェットに比べて威力が弱く、籠城側が有利であった[93]。このため、指揮官たちは直接攻撃戦術よりも兵糧攻めや坑道戦といったじわじわと守備側を衰弱させる戦術を好んだ[86]。

内戦において、両陣営とも新たな城を建設し、時には戦略的な防衛線を形成した。南西部ではマティルダ派が領域防衛のために新たなモット・アンド・ベーリー型の城を築き、ウィンチカム城、アッパー・スローター、バンプトン城などが代表例である[94]。一方、スティーヴンはケンブリッジ周辺を防衛するため、フェン地方沿いのバーヴェル、リドゲイド、ランプトン、カクストン、スウェイブジーなどの地域におよそ10〜15km間隔で一連の城を築いた[95]。このような城の多くは王の許可なく建てられたアドゥルテリン城と呼ばれる城塞であり[96]、当時の年代記作者たちはこれを憂慮していた。ロバート・オブ・トリニーは、この戦争中に1,115の城が築かれたと記録しているが、これは誇張であり、別の記録では126としている[97]。
また、対城郭や包囲城郭といった城攻めのための城郭建設もこの戦争の特徴である[98]。文献や考古学調査により少なくとも17箇所の遺構が確認されており、実際にはさらに多く存在していたと考えられている[99]。これらは内戦以前からイングランドで用いられており、攻囲対象の城の近くに仮設の城を築いて包囲戦を行うというものであった[100]。通常はリングワークやモット・アンド・ベーリー形式で、200〜300ヤード(約180〜270m)の距離に築かれ、弓の射程外に配置された[100]。攻囲兵器の台座や地域統治の前進拠点として利用され[101]、戦後には破却されることが多かった。ドーセット州のコーフ城近くに残る“The Rings”と呼ばれる土塁は、珍しく良好に保存された事例である[102]。
指導者たち
スティーヴン王は非常に裕福で、礼儀正しく謙虚な人物であり、周囲からも好かれていた。同時に、断固たる行動を取れる人物としても知られていた[103]。軍事指導者としての資質は、白兵戦の技術、攻城戦の能力、そして比較的長距離を迅速に移動させる統率力に集中していた[104]。父親が第1回十字軍において臆病であったとの噂が残っており、その評判を避けたいという思いがスティーヴンの時に無謀とも言える軍事行動の背景にあった可能性もある[105]。スティーヴンは、内戦の最中もしばしば妻のマティルド・ド・ブローニュに頼り、特に彼が1141年に捕虜となった際には、彼女は交渉や軍の維持などで中核的な役割を果たした。マティルドは、スティーヴンの傭兵長であるギヨーム・ディープルと協力して王家を支えた[106]。
一方、マティルダ側にはスティーヴンに匹敵する戦争指導者は存在しなかった。マティルダ自身は、神聖ローマ皇后時代に裁判を取り仕切り、イタリアで帝国軍の遠征時に摂政を務めるなど、政務経験は豊富であった[107]。しかしながら、女性であった彼女は直接軍を指揮することができなかった[108]。彼女は同時代の年代記者からは不評であり、父親ヘンリー1世に似て強引で傲慢な印象を与えたと言われている[109]。これは当時の女性像として特に受け入れられ難いものだった[110]。夫のジョフロワは戦争中ノルマンディーの制圧に重要な役割を果たしたが、イングランドには渡らなかった。二人の結婚生活は円満とは言い難く、1130年頃には破綻寸前であった[111]。
そのため、アンジュー派の軍勢はおおむね高位貴族たちが率いることとなった。中でも最も重要な人物は、マティルダの異母兄であるグロスター伯ロバートであった。彼は政治家としての手腕、軍事経験、指導力に秀でていた[66]。1135年にはティボー伯を王位につけようと試み、1136年のスティーヴンの初回の宮廷には出席せず、何度かの召喚の末にオックスフォードに赴いた[112]。また、もう一人の有力指揮官はマイルズ・オブ・グロスターで、1143年に戦死するまでアンジュー派の中核を担った。彼とロバートの間には若干の政治的緊張もあったが、軍事作戦においては協力関係を築いていた[113]。また、ウェールズ辺境領主であるブライアン・フィッツカウントもマティルダへの忠誠が非常に厚く、テムズ川流域の防衛に重要な役割を果たした[114]。
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内戦
要約
視点
初期段階(1139年 - 1140年)
アンジュー派の侵攻はついに8月に開始された。ボールドウィン・ド・レヴィエールはノルマンディーからウェアハムへ渡り、マティルダの侵攻軍を迎え入れる港の確保を試みたが、スティーブン王の軍により南西部へと撤退を余儀なくされた[115]。翌月、女帝は前王妃アデライザからの招待を受け、代わりにアランデルに上陸することとなり、9月30日にはグロスター伯ロバートと共に140騎の騎士を伴ってイングランドへ到着した[115][nb 10]。マティルダはアランデル城に留まり、ロバートは反乱支援を募りつつ、マイルズとの連携を図るために北西のウォリングフォード城およびブリストルへ向けて進軍した。マイルズはこの機に乗じてスティーブンへの忠誠を放棄した[117]。
スティーブンはこれに応じて速やかに南下し、アランデルを包囲してマティルダを城内に閉じ込めた[118]。その後、スティーブンは弟のウィンチェスター司教ヘンリーが提案した休戦に同意した。休戦の詳細は不明であるが、その結果としてスティーブンはマティルダを包囲から解放し、騎士分隊の護衛の下でロバート伯が待つイングランド南西部へと送還した[118]。スティーブンが政敵を解放した理由については依然として不明である。複数の同時代の年代記作者によれば、アンリはマティルダを解放しロバート討伐に集中する方がスティーブン自身の利益に適うと説いたという。またスティーブンは、この時点での主敵をマティルダではなくロバートと見なしていた可能性がある[118]。加えて、アランデルの軍事的状況もスティーブンにとって困難なものだったと考えられる。同城はほぼ難攻不落とされ、スティーブンは軍を南に縛り付けたままロバート伯を自由に動かしてしまうことを懸念したのかもしれない[119]。別の説としては、スティーブンが騎士道精神に則ってマティルダを解放したというものがある。スティーブンは寛大かつ礼儀正しい性格で知られており、アンジュー・ノルマン戦争において女性が標的とされることは通常なかったとされる[120][nb 11]。
新たにマティルダ側へ寝返った有力者はほとんどいなかったものの、彼女は今やグロスターおよびブリストルから南西のデヴォンやコーンウォール、西のウェールズ辺境伯領、さらには東のオックスフォードおよびウォリングフォードまで及ぶ、一連の連続した領域を掌握し、ロンドンを脅かす存在となった[122]。彼女は宮廷をグロスターに設置したが、これはロバートの本拠地ブリストルに近すぎず、彼女が異母兄から独立して政治を行うのに適していた[123]。スティーブンはこの地域の奪還に乗り出した[124]。彼はまずテムズ川流域を支配するウォリングフォード城を攻撃したが、ブライアン・フィッツカウントが守る同城は防衛が堅く、攻略に失敗した[125]。スティーブンは一部の兵を残して城を封鎖させ、自らは西へ進みトローブリッジを攻撃、途中でサウス・サーニー城およびマームズベリの城を攻略した[126]。一方、マイルズは東進してウォリングフォードでスティーブン軍の後衛を攻撃し、ロンドンへの進軍を脅かした[127]。スティーブンは西部戦線を断念せざるを得なくなり、東へ戻って首都の安定化を図った[128]。

1140年初頭、前年にスティーブンに城を没収されたイーリー司教ナイジェルが反乱を起こした[128]。ナイジェルはイースト・アングリアの制圧を狙い、沼沢地に囲まれたイーリー島を拠点とした[128]。スティーブンは迅速に反応し、軍を沼地へ進軍させ、舟を連結して橋とし、奇襲攻撃を仕掛けた[129]。ナイジェルはグロスターへ脱出したが、彼の部下と城は捕らえられ、東部における秩序は一時的に回復された[129]。一方、ロバート伯の部隊は1139年にスティーブンが奪取した地域の一部を奪還した[130]。和平を模索する試みとして、ブロワのアンリはバースで会議を開催した。ここではロバートが女帝を、王妃マティルダとテオバルド大司教がスティーブンを代表して出席した[131]。だが、アンリと聖職者たちが和平条件を自ら定めようとしたことで会議は決裂し、スティーブンはそれを受け入れなかった[132]。
チェスター伯ランルフは、スティーブンがイングランド北部をヘンリー王子に与えたことに不満を抱き続けていた[72]。ランルフ伯はこの問題に対処するため、クリスマス後にスティーブンの宮廷からスコットランドへ戻る途中のヘンリー王子を待ち伏せする計画を立てた[72]。この噂を耳にしたスティーブンは自らヘンリーを北方まで護送したが、この行為がランルフ伯を激怒させることとなった[72]。ランルフ伯は以前からスティーブンが保持していたリンカーン城の権利を主張しており、社交訪問を装って城を急襲し、これを奪取した[133]。スティーブン王は軍を率いてリンカーンへ進軍し、ランルフ伯がマティルダ皇后の派閥に加わるのを防ぐため、彼に城の保持を認める形で休戦に合意した[134]。スティーブンはロンドンへ戻ったが、ランルフ伯が弟や家族とともに少数の守備兵だけを置いてリンカーン城で滞在しているとの報せを受けた。格好の奇襲の機会と見たスティーブンは、先の合意を破棄して再び軍を集め北上した[134]。しかし間に合わず、危険を察知したランルフ伯は城から脱出して皇后側への支持を表明した。スティーブンはやむなくリンカーン城を包囲することとなった[134]。
第二段階(1141年 - 1142年)
リンカーンの戦い

1141年初頭、スティーブンとその軍はリンカーン城を包囲していたが、グロスター伯ロバートとチェスター伯ラヌルフはそれより大規模な軍勢を率いてスティーブンの元へ進軍した[135]。この報せを受けたスティーブンは軍議を開き、戦うか兵を集めて撤退するかを協議したが、結局戦うことを決断し、2月2日にリンカーンの戦いが勃発した[135]。スティーブンは中央を指揮し、右翼にはリッチモンド伯アラン、左翼にはアルベマール伯ウィリアムを配した[136]。ロバートとランルフの軍は騎兵数で優位に立ち、スティーブンは自軍の多くの騎士を下馬させて歩兵陣を構築し、自身も歩兵として戦列に加わった[136][nb 12]。スティーブンは雄弁な演説者ではなかったため、開戦前演説はボールドウィン・オブ・クレアに任された[138]。戦の初め、ウィリアム伯率いる軍勢がアンジュー派のウェールズ兵を撃破するも、戦局は急速に悪化した[139]。ロバートとランルフの騎兵がスティーブン中央軍を包囲し、王は敵中に孤立した[139]。この段階でワレラン・ド・ボーモンやギヨーム・ディープルらを含む多くの王党軍が戦場から逃走したが、スティーブンは剣で、剣が折れた後は借り物の戦斧で戦い続けた[140]。しかし、最終的にスティーヴン王はロバートの部隊に包囲され、捕縛された[140][nb 13]。
ロバートはスティーブンをグロスターへ連行し、マティルダと面会させたのち、彼を高貴な捕虜を収容する伝統のあるブリストル城へ移送した[142]。当初は比較的快適な環境で幽閉されたが、後に拘束は厳しくなり、鎖で繋がれた状態に置かれた[142]。戦後、マティルダは王位簒奪に必要な一連の手続きを開始した。それには教会の承認と、ウェストミンスター寺院での戴冠が必要であった[143]。スティーブンの弟ヘンリー司教は、教皇特使としてイングランド教会の見解を問うため、イースター前にウィンチェスターで評議会を召集した。彼はマティルダと私的な合意を交わしており、イングランドにおける教会統治権を彼女に認めさせる代わりに、教会の支持を提供するという内容の取り決めがなされた[144]。ヘンリー司教は王家の財宝(王冠以外はほとんど枯渇していた)をマティルダに引き渡し、スティーブン支持を続ける者を多く破門した[145]。しかし、カンタベリー大司教セオバルドは即座に女王を宣言することに難色を示し、彼を筆頭とする聖職者と貴族の代表団は、ブリストルでスティーブンと面会して、忠誠の誓いを破棄すべきかどうかの道徳的判断を仰いだ[144]。スティーブンは、自らの状況を鑑み、臣民を自身に対する忠誠から解放することに了承した[146]。
聖職者らはイースター後に再びウィンチェスターで集会を開き、マティルダを「イングランドおよびノルマンディーの女領主(Lady of England and Normandy)」と宣言した[146]。だが、出席したのはマティルダ側の支持者に限られ、他の有力貴族はほとんど参列せず、ロンドンからの使節も態度を明らかにしなかった[147]。スティーブンの王妃マティルドはこの状況に不満を示し、王の釈放を要求した[148]。マティルダは6月の戴冠に向けてロンドンに進軍したが、情勢は不安定となった[149]。エセックス伯ジェフリー・ド・マンデヴィルの協力によりロンドン塔を掌握したものの、スティーブンおよび王妃の支持勢力が市外に集結し、市民もマティルダの入城を恐れた[150]。6月24日、戴冠直前にロンドン市民は反乱を起こし、マティルダとジョフリー・ド・マンデヴィルに対して蜂起した。マティら一行は混乱の中、辛くもオックスフォードへ撤退した[151]。
一方、アンジュー伯ジョフロワ5世はノルマンディーへ再侵攻し、ノルマンディーの代理統治者であったウスター伯ワレランがイングランドに滞在中である隙を突き、セーヌ川以南およびリスル川以東の地域を制圧した[152]。この時、ノルマンディーはスティーブンの兄であるブロワ伯ティボー4世からの支援も得られなかった。フランス王ルイ7世は父がスティーヴン王と結んだ地域同盟を否定し、アンジューと接近した上にティボー伯と対立していたためである[153]。ノルマンディーにおけるジョフロワ伯の軍事的成功、そしてイングランドにおけるスティーブンの敗北は、数多くのアングロ・ノルマン貴族たちに動揺を与えた。彼らはイングランドの所領をロバート伯やマティルダに、ノルマンディーの所領をジョフロワ伯に奪われることを恐れた[154]。多くの者がスティーブン陣営を離脱し始めた。友人で助言者であったワレラン伯もその一人で、1141年半ばにアンジュー派と同盟することでノルマンディーにおける家産の保全を図り、同時にウスターシャーをマティルダ陣営に引き入れた[155]。彼の双子の兄弟であるレスター伯ロバートもほぼ同時に戦争から手を引いた。イーリー司教ナイジェルのように元の領地に復帰した者もいれば、西部で新たな伯位を授けられた者もいた。また、貨幣の鋳造に対する王権の統制も崩れ、全国で貴族や司教が独自に貨幣を発行するようになった[156]。
ウィンチェスターでの潰走とオックスフォード包囲戦
→詳細は「en:Siege of Oxford (1142)」および「en:Rout of Winchester」を参照
マティルド王妃は、彼が捕虜となっていた間に王党の勢力を維持する上で重要な役割を果たした。王妃マティルダは、スティーブンの残された副官たちを南東部の王家のもとに結集させ、ロンドンの人々がマティルダ皇后を拒絶すると軍を進めて市内に入った[157]。スティーブンの長年の指揮官ギヨーム・ディープルはロンドンで王妃に付き従い、王室執事ウィリアム・マーテルはドーセットのシャーボーンから作戦を指揮し、ファラマス・オブ・ブローニュが王室の運営を担った[158]。王妃はスティーブンの忠実な支持者たちから、真の同情と支援を引き出していたようである[157]。一方、ヘンリー司教の皇后との同盟は短命に終わった。まもなく両者は政治的恩顧や教会政策をめぐって対立し、司教はギルフォードでマティルド王妃に会い、彼女に支持を移した[159]。
1141年、ウィンチェスターで喫した敗北によって皇后サイドの立場は一変した。ロンドンからの撤退後、グロスター伯ロバートとマティルダ皇后は1141年7月にウィンチェスターのヘンリー司教が立て籠る彼の居城を包囲した[160]。マティルドはウィンチェスター市内の王城を拠点としていたが、やがてマティルド王妃とギヨーム・ディープル指揮官がロンドンからの援軍を加えてアンジュー軍を包囲した[161]。マティルダ皇后はフィッツ・カウントやコーンウォール伯レジナルドとともに市から脱出することを決め、残りの軍が王党軍の追撃を遅らせ彼らの脱出を支援した[162]。しかし続く戦闘で皇后の軍は敗北し、ロバート伯自身が退却の途上で捕虜となったが、皇后自身は疲労困憊しながらもデヴィセズの要塞への撤退に成功した[163]。
スティーブンとロバートがともに捕虜となったため、長期的な和平を模索する交渉が行われたが、王妃は皇后に譲歩する意思がなく、またロバートもスティーブン側に寝返ることを拒否した[164]。結局、同年11月に両者は単純に捕虜を交換し、スティーブンは王妃のもとに戻り、ロバートはオックスフォードに滞在する皇后のもとに戻った[165]。ヘンリー司教は再び教会会議を招集し、以前の決定を覆してスティーブンの正統性を再確認した。同年のクリスマスには、スティーブン王とマティルド王妃の新たな戴冠が行われた[164]。1142年初頭、スティーブンは病に倒れ、復活祭までに死んだとの噂が広まった[166]。おそらく前年の幽閉による影響であったが、彼は最終的に回復し、北部へ遠征して新たな軍を集め、チェスター伯ランルフを再び味方に引き入れることに成功した[167]。スティーブンはその夏、前年に築かれた新しいアンジュー軍の城砦を攻撃し、シレンセスター城(en:Cirencester Castle)、バンプトン城(:en:Bampton castle)、ウェアラム(:en:Wareham)を攻略した[168]。
1142年半ば、ロバートはノルマンディーに戻り、ジョフロワ伯の作戦を援助した後、再びイングランドに帰還した[169]。一方その間に、マティルド皇后はスティーブン軍の圧力を受け、オックスフォードで包囲されていた[168]。オックスフォードは城壁とテムズ川の支流アイシス川によって守られた堅固な町であったが、スティーブンは突如として川を渡る攻撃を敢行し、自ら先頭に立って一部を泳いで渡った[170]。渡河に成功した王とその兵は町に侵入し、皇后を城に閉じ込めた[170]。オックスフォード城は強固な要塞であったため、スティーブンは強襲を断念し、皇后が完全に包囲されたという安心感を得て長期包囲に入った[170]。しかしクリスマス直前、皇后は城を抜け出し、凍った川を徒歩で渡って王軍をすり抜け、ウォーリングフォードまで逃げ延びた。残された守備隊は翌日降伏した。皇后マティルダはしばらくフィッツ・カウントのもとに滞在した後、再びデヴィセズに宮廷を構えた[171]。
膠着状態(1143年 - 1146年)

1140年代半ばになると、イングランドでの戦争は膠着状態に陥った。一方でアンジュー伯ジョフロワはノルマンディーで勢力を固め、1144年にルーアンを占領してノルマンディー公として承認された[172]。1143年初頭、スティーブン王はグロスター伯ロバートにヘレフォードシャー地域のウィルトン城(王党軍の集結拠点となっていた)で包囲されていた[173]。スティーブンは突破を試みてロバート伯の軍勢と激突となったが、ここでもアンジュー軍の騎兵は精強に反撃し、王は二度目の捕縛の危機に陥った[174]。このとき王室執事ウィリアム・マーテルが果敢に抵抗して見事に殿を務め、スティーブンを戦場から逃がすことに成功した[173]。スティーブンはその忠誠心を重んじ、ウィリアムの解放と引き換えにシャーボーン城と明け渡すことに同意した。スティーブンが家臣のために城を譲った数少ない事例の一つである[175]。
1143年末には東部で新たな脅威が生じた。エセックス伯ジェフリーがイースト・アングリアで反乱を起こしたのである[176]。スティーブンは長年この男を嫌っており、宮廷に彼を召喚して逮捕し、ロンドン塔、ウォルデン城、プレシー城といったロンドン近郊若しくはロンドン内の城を差し出さなければ処刑すると脅迫した[177]。ジェフリーは屈服して釈放されたが、自由の身となるやフェンズのエリー島に逃れ、ケンブリッジを攻撃し、南下してロンドンに迫ろうとした[177]。ノーフォークではノーフォーク伯ヒュー・ビゴッドが依然として反乱中であり、スティーブンにはフェンズでジェフリー伯を討つ余力がなかった。そのためロンドンとエリーの間に防衛線を築き、バーウェル城などを建設して対応した[178]。
状況はさらに悪化した。1144年半ばにはチェスター伯ランルフが再び反乱し、ランカスター領(en:Honour of Lancaster参照)を自らとスコットランド王子ヘンリーで分割した[179]。西部ではロバート伯が依然として王党派領地を襲撃し、ロンドン近郊のウォーリングフォード城はアンジュー側の拠点として残っていた[179]。アンジュー伯ジョフロワは南ノルマンディーの支配を確立し、1144年1月にノルマンディーの首都ルーアンに進軍して戦役を終えた[167]。その後、フランス王ルイ7世は彼をノルマンディー公と認めた[180]。この頃までに、スティーブンはギヨーム・ディープルらをはじめとする王室直臣にますます依存するようになり、主要諸侯の支援を欠いていた。1141年の出来事以来、スティーブンは伯爵たちの大規模な支援網をほとんど利用できなかった[181]。
1143年以降、戦いは続いたが、状況はややスティーブンに有利となった[182]。1143年のクリスマス、アンジュー側の有能な指揮官であったヘレフォード伯マイルズが狩猟中に事故死し、西部での王党派に対する圧力は和らいだ[183]。ジェフリー・ド・マンデヴィルの反乱は1144年9月に彼自身がバーウェル城攻撃中に戦死するまで続いた[184]。1145年にはオックスフォードシャーのファリングドン城を奪回し、西部での戦況は改善した[184]。北部ではスティーブンはチェスター伯ランルフと新たな協定を結んだが、1146年には1143年と同じ策略を用いた。彼を宮廷に招き、捕らえて処刑をちらつかせ、リンカーン城やコヴェントリー城を引き渡すよう迫ったのである。だが釈放されるとランルフ伯はすぐに再び反乱を起こした[179]。しかし北部でのスティーブンの兵力は乏しく、ランルフも十分な城を持たず攻勢に出られなかったため、結局は膠着した[179]。スティーブンが諸侯を宮廷に招いて逮捕するというやり方は、この頃には悪評を招き、不信を強める結果となった[185]。
終盤期(1147年 - 1152年)

1140年代後半になると、イングランドでの紛争の様相は徐々に変化していった。歴史家フランク・バーロウが指摘するように、1140年代末までには「内戦は終わっていた」とされ、散発的な戦闘を除けば戦争は沈静化した[186]。1147年、グロスター伯ロバートが自然死し、翌年にはマティルド皇后がデヴィセズ城の所有権をめぐる教会との争いを収めるためノルマンディーへ戻ったことで、戦争の進行はさらに沈静化した[187]。第2回十字軍が宣言され、ワレラン伯を含む多くのアンジュー派支持者が参加して数年間イングランドを離れた[186]。諸侯の多くは領地や戦時の獲得地を守るために個別の和平協定を結んだ[188]。1147年には、マティルド皇后とアンジュー伯ジョフロワの子である若きヘンリー(ヘンリー・フィッツエンプレス、後のヘンリー2世)が傭兵を率いてイングランドに小規模な侵攻を試みたが、資金不足で兵の給料を払えず失敗した[186]。最終的にはスティーブンが費用を肩代わりし、ヘンリーは無事帰還を許された。その理由は明らかではないが、親族への礼儀としてか、あるいは和平を模索する中でヘンリーとの関係を築く意図があった可能性がある[189]。
1150年代には、諸侯同士の間で停戦や武装解除の協定網が形成されていた。これらの協定は通常、相互の敵対行為の停止、新たな城の築城の制限、出兵規模の制約などを含んでいた[190]。ただし、君主の命令に従う場合は戦わざるを得ないとの条項も設けられていた[191]。これらの協定によって戦闘は減少したが、完全に消滅することはなかった[192]。
皇后マティルダは戦争の残りの期間をノルマンディーで過ごし、公国の安定と息子ヘンリーのイングランド王位継承権の獲得に向けて注力した[193]。1149年、若きヘンリーは再びイングランドに渡り、チェスター伯ランルフとの北部同盟を形成しようとした[194]。その計画は、ランルフがスコットランドに保持されていたカーライルの請求権を放棄し、その代わりにランカスター領(en:Honour of Lancaster)全域の権利を与えられるというものであった。ランルフはスコットランド王デイヴィッド1世とヘンリーに対して忠誠を誓い、ヘンリーが上位に立つ形となった[195]。この協定に基づき、ヘンリーとランルフはスコットランドの援軍を得てヨークを攻撃しようとした[196]。しかしスティーブンが急行し、計画は頓挫した。ヘンリーはノルマンディーへ戻り、父ジョフロワによってノルマンディー公に宣言された[197][nb 14]。若いながらも、ヘンリーは精力的で有能な指導者としての評判を高めており、1152年にアキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌと結婚したことでさらに権威を増した。彼女はフランス王ルイ7世の前妻で、この婚姻によりヘンリーはフランスの広大な領域を支配下に置く将来の支配者となった[198]。
戦争の最後の数年間、スティーブンもまた家族と王位継承問題に焦点を移していった[199]。1147年、彼は長男ウスタシュにブローニュ伯領を与えたが、ウスタシュがイングランドを継承できるかは不透明であった[200]。スティーブンはフランスの慣習に倣い、自らの生存中にウスタシュを戴冠させたいと望んだが、これはイングランドの慣例ではなく、1143年から1144年にかけて短期間教皇を務めたケレスティヌス2世がこの慣習変更を既に禁じていた[200]。戴冠を行える唯一の人物はカンタベリー大司教セオバルドであったが、彼はウスタシュの戴冠がスティーブン死後の新たな内戦を招くと考え、現教皇エウゲニウス3世の同意なしには戴冠を拒否した[201]。スティーブン王の置かれた状況は、権利や特権をめぐる教会関係者とのさまざまな争いによってさらに悪化した[202]。1152年の復活祭にスティーブンは改めて戴冠を試み、貴族たちにウスタシュへの忠誠を誓わせ、大司教と司教たちに戴冠を迫った[203]。しかしセオバルドは再び拒否し、スティーブンとウスタシュは彼と司教たちを投獄し、戴冠に応じなければ釈放しないと脅した[203]。セオバルドは逃亡して一時的にフランドルへ亡命し、スティーブンの騎士に追われて海岸へ逃れた。この事件はスティーブンと教会の関係における最低点を示すものとなった[203]。
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戦争の終結
要約
視点
和平交渉(1153 - 1154)
1153年初頭、ヘンリー・フィッツエンプレス(のちのヘンリー2世)は小規模な軍を率いて再びイングランドに戻り、北部と東部ではランルフ伯やヒュー・ビゴッドの支援を受けた[204]。スティーブン王支配下のマームズベリー城はヘンリー軍に包囲され、国王は後詰として西方へ進軍した[205]。スティーブンはエイヴォン川沿いでヘンリーの小勢に決戦を強いたが失敗した[205]。冬の厳しい天候に直面したスティーブンは一時停戦に合意してロンドンへ戻り、ヘンリーはミッドランズ地域を北上した。この地を治める強大な諸侯であるレスター伯ロバート・ド・ボーモンがアンジュー派を支持することを表明した[205]。軍事的成果は限定的であったが、ヘンリーとその同盟者は南西部、ミッドランズ、北部の大半を支配下に置くこととなった[206]。復活祭直前には、イングランドの高位聖職者団がストックブリッジでヘンリーと会談した[207]。詳細は不明だが、聖職者たちはスティーブンを国王として支持する一方、和平を望む姿勢を強調し、ヘンリーは大聖堂を避け、司教たちに宮廷出席を求めないことを約束した[208]。
スティーブンは戦争終結への最後の試みとして、長期にわたるウォーリングフォード城の包囲を強化した[209]。陥落は目前と思われたが、ヘンリーは南下して救援に向かい、小軍ながらスティーブン軍を逆に包囲した[210]。この報を受けたスティーブンは大軍を集めてオックスフォードから進軍し、両軍はウォーリングフォードのテムズ川を挟んで対峙した[210]。だがこの時点で諸侯は決戦を避けたいと考えていたようである[211]。そのため戦闘は行われず、聖職者たちの仲介により休戦が成立し、スティーブンとヘンリーの双方はこの休戦に不満を抱いたという[211]。
ウォーリングフォードでのやり取りの後、スティーブンとヘンリーは秘密裏に会談して戦争終結の可能性を話し合った。だがスティーブンの息子ウスタシュは和平に激怒し、資金調達のためケンブリッジに戻ったが翌月病に倒れ、死去した[212]。ウスタシュという有力な王位継承候補者の死は和平を望む者にとっては政治的に好都合であった。歴史家エドマンド・キングは、ウォーリングフォードでの協議にウスタシュの王位継承が一切言及されなかったことが彼の怒りを増した原因となった可能性を指摘している[213]。
ウォーリングフォード以後も戦闘は続いたが、消極的なものであった。スティーブンは東部でヒュー・ビゴッドと戦っている間にオックスフォードとスタンフォードを失ったが、ノッティンガム城はアンジュー派の攻撃を退けた[214]。一方、ヘンリー司教とカンタベリー大司教セオバルドは和平を仲介するため協力し、スティーブンに合意を迫った[215]。その結果、両軍は再びウィンチェスターで会し、1153年11月に恒久的和平の条約を批准した[216]。スティーブンはウィンチェスター大聖堂で「ウィンチェスター条約」を発表し、ヘンリー・フィッツエンプレスを養子かつ後継者と認める代わりに、ヘンリーはスティーブンに臣従を誓うこととなった。スティーブンは王権を保持しつつ、ヘンリーの助言を受け入れると約束した。残る息子ギヨームはヘンリーに臣従し、王位請求権を放棄する代わりに領地の安堵を得た。また、主要な王城は保証人がヘンリーのために管理し、スティーブンもヘンリーの城に立ち入れることが定められた。さらに、多数の外国人傭兵は解雇され本国へ送還された[217]。スティーブンとヘンリーは大聖堂で「平和の口づけ」を交わして条約を固めた[218]。
移行と再建(1154年 - 1165年)
スティーブンがヘンリーを後継者と認めたことは、当時において必ずしも内戦の最終的解決策とは見なされなかった[219]。新しい貨幣発行や行政改革が行われたが、スティーブンがなお長く生きる可能性もあり、またヘンリーの大陸での地位は安定していなかった[219]。ウスタシュの弟ギヨームは若く即位を争う力を持たなかったが、1154年にはギヨームがヘンリー暗殺を計画しているとの噂も広まっていた[220]。歴史家グラハム・ホワイトはウィンチェスター条約を「不安定な平和」と呼び、1153年末の状況がなお不確実かつ予測不能であったと総括している[221]。それでもスティーブンは1154年初頭に王国各地を巡幸し活発に活動した[222]。南西部で王令(writ)を再び発布し、ヨークに赴いて大規模な王廷を開き、北部諸侯に王権の復活を示そうとした[223]。同年にはドーバーでフランドル伯ティエリー・ダルザスと会見したが、この頃すでに病を得て継承問題の整理を進めていた可能性がある[224]。スティーブンは胃の病を患い、1154年10月25日に死去した[224]。
スティーブン王の死後、ヘンリーは特に急ぐことなく1154年12月8日に上陸した後、諸侯から忠誠を受け、妻アリエノールとともにウェストミンスター寺院で戴冠した[225]。1155年4月には王廷が召集され、諸侯は王とその息子たちに忠誠を誓った[225]。ヘンリーは自らをヘンリー1世の正統な後継者と位置づけ、王国の再建を開始した[226]。スティーブンも内戦期にヘンリー1世の統治方法を継承しようとしたが、新政権はスティーブンの19年間を混乱と苦難の時代とみなし、王位簒奪がその原因であるとした[227]。また、母皇后マティルダと異なり、他者の助言を受け入れる姿勢を強調した[228]。ただし即位後の最初の8年間のうち6年半をフランスで過ごしたため、多くの統治は遠方から行わざるを得なかった[229]。
イングランドは戦争によって深刻な打撃を受けていた。アングロ・サクソン年代記は「混乱と悪行と略奪しかなかった」と記している[230]。南西部、テムズ渓谷、イースト・アングリアなどでは戦闘や略奪が大きな荒廃をもたらした[231]。王室の貨幣制度は分裂し、スティーブン、マティルダ皇后、地方領主がそれぞれ独自に貨幣を鋳造した[231]。また、王室の森林法は各地で崩壊した[232]。一方、南東部のスティーブン王直轄領やグロスターとブリストル周辺のアンジュー派の拠点は比較的無傷であり、北部ではスコットランド王デイヴィッド1世が支配を維持した[231]。王室収入は特に1141年以降に大幅に減少し、貨幣鋳造の支配権も南東部とイースト・アングリア以外では限られていた[233]。スティーブンは存命中、南東部に拠点を置いていたので王権の中心は次第にウィンチェスターからウェストミンスターへ移っていた[234]。
ヘンリーがまず行った施策の一つは、残存する外国人傭兵の追放と無許可で築城された城塞の破却の継続であった[235][nb 15]。ロベール・ド・トリニは375の城が破壊されたと記したが、近年の研究ではその数は過大であり、多くは戦後に放棄されたに過ぎないと考えられている[236]。またヘンリーは王室財政の再建を最優先し、ヘンリー1世の制度を復活させ、会計の水準向上に努めた[237]。1160年代には財政再建はほぼ完了した[238]。
戦後期には国境地帯での活動が活発化した。スコットランド王やウェールズ諸侯は内戦中に係争地を奪取していたため、ヘンリーはこれを回復しようとした[239]。1157年にはスコットランド王マルカム4世が圧力に屈し、戦時に奪った北イングランドの領地を返還した。ヘンリーはただちに北部国境を再要塞化した[240]。ウェールズにおけるアンジュ―・ノルマンの覇権回復はより困難で、1157年と1158年に北ウェールズと南ウェールズへ軍を派遣し、最終的にグウィネズ王オワイン・グウィネズとデハイバース公リース・アプ・グリフィズが降伏し、内戦前の領地分割に戻ることで合意した[241]。
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遺産
要約
視点
史学史

無政府時代に関する近代史研究の多くは、12世紀頃の年代記作者たちの記録に基づいており、この時代について比較的豊富な資料を提供している[242]。ただし、主要な年代記はそれぞれ地域的な偏向を有している。代表的なものとして、イングランド南西部で書かれた『ゲスタ・ステファニ』や、マームズベリのウィリアム(William of Malmesbury)による『新しい歴史』がある[243]。ノルマンディーでは、オルデリック・ヴィターリスが『教会史』を1141年まで記し、その後をロベール・ド・トリニが補った[243]。イングランド東部では、ハンティンドンのヘンリーが『イングランドの歴史』を著し、地域的視点から内戦を記録している[244]。『アングロ・サクソン年代記』はこの時期すでに全盛期を過ぎていたが、ピーターバラ修道院で編纂が続けられた「ピーターバラ年代記」は、無秩序な状況を鮮烈に描写していることで知られ、とりわけ「人々は公然と、キリストと聖人たちは眠っていると言った」という記録で有名である[245]。これらの年代記の多くは、当時の主要な政治的人物に対する賛否の偏りを含んでいる[246]。
「無政府時代(the Anarchy)」という語を内戦の呼称として用いることについては、批判的議論が多い。この語は19世紀後期に由来する。当時の歴史家の多くは、中世を通じてイングランドの政治・経済が漸進的かつ普遍的に発展したとみなす歴史観を持っていた[247]。この「ウィッグ史観」に立つウィリアム・スタッブズは、1874年の著書『イングランド憲法史』でこの時代を論じ、1140年代における憲政発展の断絶を強調した。その弟子ジョン・ラウンドがこの時代を「無政府時代(the Anarchy)」と呼ぶ契機となった[248]。しかし後世の研究では、この用語は批判されている。というのも当時の財務記録や他の文書を分析すると、法と秩序の崩壊は年代記が示すほど全面的ではなく、より微細で地域的なものだったからである[249]。1990年代以降の研究では、戦後におけるヘンリーの再建政策も、従来考えられていたよりスティーブンの戦時体制と連続性があると再評価されている[250]。現代史家は今なお「無政府時代」という語を用いるが、多くの場合は注釈や限定を付している[251]。
大衆文化における描写
無政府時代は、歴史小説の舞台として時折用いられてきた。スティーブン、マティルダとその支持者たちは、エリス・ピーターズの歴史探偵小説『修道士カドフェル』シリーズ(1137年から1145年を舞台とする)に登場する[252]。ピーターズの描写はシュルーズベリーとその周辺に焦点を当てた地域的物語であり[252]、スティーブンを寛容で穏健な君主として描いているが、1138年にシュルーズベリー守備隊を処刑したことも触れられている[253]。これに対し、ケン・フォレットの歴史小説『大聖堂』およびそれに基づくテレビシリーズでは、スティーブンは無能な君主として描かれている。フォレットは物語をホワイトシップの遭難に関するオースティン・プールの記述から始め、歴史的背景を提示しているが、その後の物語は現代的な人物像や問題意識を内戦に投影したものであり、この特徴は壮大な時代劇風の映像化作品にも引き継がれている[254]。
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脚注
参考文献
関連文献
関連項目
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