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大法官

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大法官
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大法官(だいほうかん、英語: Lord Chancellor)は、イングランドイギリスの官職である。中世に創設され、イギリスに現存する官職の中で最も古い官職と言われる。

概要 イギリス大法官 Lord Chancellor, 担当機関 ...

中世以来国璽の管理にあたり、その権限を通じて様々な行政上の職務を管理下に置く大臣職となった。内閣首相が登場してくるまで主要閣僚の地位を占めており[2]国務大官としては戴冠式の際にのみ任命される「大家令」に次ぐ地位にある。15世紀半ば頃から議会上院貴族院)議長も兼ねるようになった[3]

貴族院は2009年まで最高裁判所でもあったため司法機能も有したが、貴族院議長の役割は2005年憲法改革法により削除された(代わって貴族院議長職が新設された)。現在の大法官はイギリスの内閣における司法省を所管する閣僚職という役割に限定されている[4]

臣下の宮中席次においてはカンタベリー大主教に次ぐ第二位であり、首相よりも上位者である[2]

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歴史

要約
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トマス・モア(任期:1529年 - 1532年)
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フランシス・ベーコン(任期:1617年 - 1621年)

起源

その由来はエドワード懺悔王11世紀中頃に遡ると言われている[3]605年に創設されたとする異説もあり、イギリスに現存する最も古い官職である[2]

始めの頃は国王の書記長だったため文字を書ける聖職者が多く任命されていた[3][5]。聖職者が兼務する場合には宮廷礼拝堂を併せて管轄したとされる。また「Lord Chancellor」という呼称は「cancelli」(=「囲い格子」)に由来し、宮廷の礼拝堂の衝立の後方に大法官の執務の間が設置されていたからであるという説がある。

権限の拡大

12世紀初めまでに王政庁の重要職となり、国璽の管理と国璽を必要とする法令等の作成・発給などの行政事務を行った。また国政に関する国王の助言役でもあった[3]。これらの役割を通じて幅広い行政上の役割を管理するようになり、首相が登場するまでは内閣の主要閣僚の役割を果たしていく[2]

プランタジネット朝以後、国王の行動範囲が拡大されて国王の滞在地とともに移動してきた王政庁の中で大法官の職務を維持することは次第と困難になり、やがて13世紀には王政庁の文書局部門とともに独立して、ロンドンウェストミンスター大法官府英語版と呼ばれる常設官庁として設置されるに至った。この時代には職務柄故に王の宰相としての職務を行うようになる一方で、大法官府自体は単なる事務官庁と化してしまい、大法官本来の職務の重要性は低下するようになった[3]

大法官の国璽の管理に対して、私的な印章である王璽を管理する王璽尚書があり、上記の大法官府の分離独立に伴い重要性が増した王璽が多用され、保管責任者である王璽尚書は政府高官になった[6]。また、王璽とは別に王の身近な印章である御璽(シグネット)を管理する役職に国王秘書官があり、政府の批判・監視を主張した議会の統制を嫌い寵臣政治に傾いたリチャード2世は宮廷財務室と国王秘書官室を活用、後者に属する国王秘書官は御璽で発行された王の意思表示である御璽令状作成に当たった。後にこの役職は国王秘書長官へと発達していった[7]

14世紀に入ると、コモン・ローによって救済を得られなかった者から国王に対してなされた直接の請願・訴えを処理する大法官裁判所英語版が併置され大法官が裁判長になり、衡平法裁判所(Court of equity)としての役割を果たす[3]。一方で大法官は財務府の一員でもあったが、職務は代理任せになり財務大臣に発展していった[3]。更に15世紀半ばにイングランド議会が上下両院に分かれると、上院貴族院議長を兼務するようになった[3]

テューダー朝期には政治的発言力が増し、特にトマス・ウルジーは絶大な権勢を誇った[3]。しかしこの頃から、コモン・ローに精通した法律家が大法官になるケースが増えていき(その第一号はトマス・モアだといわれている)、1625年以後は聖職者の大法官は姿を消す[3]。また、モア以降は大法官が議会と国王の仲介者とみなされるようになる[2]国璽尚書が大法官代理を務める例もあり、1558年エリザベス1世により国璽尚書に任命されたニコラス・ベーコンは、女王と対立して蟄居させられた大法官ニコラス・ヒース英語版に代わり議会運営を担当した[8]。ベーコンの息子フランシス・ベーコン1617年に父と同じく国璽尚書に就任、翌1618年には大法官にもなった[9]

こうして大法官は立法行政司法において権限を拡大させていき、イギリス憲政史においても「国王と議会および裁判所を仲介するイギリス憲法に固有の職責」として肯定的に解釈されてきた[10]

権限の縮小

だが、一方で巨大となった大法官の権限削減の動きが現れる。まず、財政部門が切り離されて「財務府」が独立した。財務府からは王室の財政を司る「大蔵府」が分離・成立し、1721年からはその長である第一大蔵卿首相として内閣を率いて国政の最高責任者としての地位を大法官から奪った。更に1873年の「裁判所法」制定に伴う司法改革によって、大法官府を縮小され、高等法院と上院に権限が分割され、上院が最終上級裁判所(最高裁判所)を形成し、上院議長である大法官がその長官を兼務して、治安判事以下の司法官の人事権者となった。国璽管理事務は閣僚の王璽尚書が扱うことになった。

21世紀初頭の改革

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初の下院議員大法官となったジャック・ストロー

伝統的なイギリス法での考えでは、カンタベリー大主教(第一位)の次である第二位の序列にあり、イギリスの俗人としては最高の地位にある大法官が、より下位の序列にある首相によって任免されると言う矛盾した状態にある。そのうえ、大法官が最高裁判所を率いて裁判官の人事を決定するのは三権分立原則に反しているとも言え、「権力分立の歩く矛盾」と呼ばれた(貴族院では大法官も審理に加わる資格はあるが、通常審理参加を放棄する旨を表明する事となっていた)。この結果、ブレア内閣によって上院改革と平行して大法官制度の改革が行われた。

まず2003年6月12日に大法官府が廃止され、代わって憲法事項省英語版が設置され[11]、大法官は「憲法事項大臣英語版」の称号を帯びるようになった。憲法事項省は、大法官府が取り扱っていた登記などの民事事務を引き継ぐと共に、新たな所轄事項として憲法の成文化なども扱っている。なお、憲法事項省・憲法事項大臣は、2007年5月9日より司法省司法大臣と改称している。

ついで2005年に「2005年憲法改革法」が成立し、上院議員の選挙で選ぶ貴族院議長連合王国最高裁判所が設置され、大法官は立法権及び司法権における地位と権限を失った[11]。初代上院議長は2006年7月4日にヘイマン女男爵が選出され、連合王国最高裁判所は2010年10月1日に上院の常任上訴貴族(Lords of Appeal in Ordinary)12名を初代裁判官として発足した。

ブレア内閣による改革後も、必ず貴族が就任する閣僚の一つという慣習はしばらくの間守られてきた[12]。しかし2007年6月のブラウン内閣発足に際し、ジャック・ストロー庶民院(下院)議員としては史上初めて大法官に任ぜられた。その後キャメロン内閣以降の内閣で任命された大法官も全員が下院議員であり、「下院議員は上院本会議では発言できない」との慣習により、上院本会議から大法官が姿を消した状態が続いている。なお、枢密院の機関である王立委員会(Royal Commission) は、大法官が主宰し上院議場で開催される慣例になっていたが、ブラウン内閣以降は上院本会議に倣い欠席を通例とし、貴族院議長が主宰を代行している。

今日では大法官は枢密院と内閣の閣僚の一員として首相の任免権に服する事になっている。大臣としての大法官は主に民事案件と憲法成文化を司る司法省を統轄し、刑事案件を取り扱う法務長官率いる法務長官府と共に法律事務を行っている。

大法官は臣下の宮中席次においては首相よりも上位の席次であり、カンタベリー大主教に次ぐ第二位の立場にある[2]

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歴代大法官

イングランド大法官・国璽尚書 (1068–1707)

11世紀

12世紀

13世紀

14世紀

15世紀

1500年–1654年

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議会の国璽の委員 1643年–1660年

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1660年王政復古から1707年合同法まで

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イギリス大法官・国璽尚書 (1707年–現在)

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脚注

参考文献

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関連項目

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