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焼津港の徴用船

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徴用船(ちょうようせん)とは、戦時において軍部から徴用される民間の船舶。商船や漁船がその対象となる。本稿では昭和期戦時下の静岡県焼津港を中心とした徴用船について述べる。

漁船の徴用目的

当初は、大型船からの荷役や兵士たちの食料運搬など雑用目的に徴用されたが、戦況が厳しくなるにつれて軍事作戦にも加わっていった。

概略

全国

昭和12年(1937年)7月の日中戦争から、昭和20年(1945年)8月の太平洋戦争終結までの8年間、全国での民間船舶の戦争被害は

  • 商船被害 約2千5百隻 (約800万トン)、戦没者 約3万人
  • 漁船・機帆船被害 約4千隻、戦没者 約3万人

といわれているが、詳細についてまとまった記録は見つかっていない。

静岡県

日中戦争開始に伴い、1937年10月に県下にも、12トン内外、全長15メートル、深さ1.5メートル前後の船舶、30隻の徴用船の割当てが、あったとされる。

焼津港

焼津港からも1937年7月から、海軍や陸軍、農林省からの徴用が始まる。戦況が厳しくなる1941年ごろからは、ほとんどの遠洋漁船が徴用され、焼津の漁業は大きな打撃を受けた。

焼津漁船の南方進出と徴用

焼津港の漁船の徴用は、焼津漁業組合(1903年に発足)の発展と深い関係をもつ。

  • 1909年 焼津漁船の動力化が始まった。
  • 1924年 焼津港で初の鋼船 第三川岸丸が進水。
  • 1925年 原耕が建造した排水量100トン級の大型木造漁船、千代丸と八阪丸が進水
  • 1925年9月 焼津港に全国で初めて漁業無線施設である枕崎漁業無線局開局(現在の鹿児島県無線漁業協同組合)が認可され、遠洋漁業が急速に拡大した。
  • 1927年 千代丸が鵬程一万里、一航海一万円を成し遂げた影響で急速に100トン級漁船の建造が増加する。
  • 1931年 焼津の所属船による初の南方進出。海隼丸(50トン)が出航。
  • 1939年 
    • 夏 サイパン・パラオ・トラック方面への進出が実現
    • 冬 カツオからマグロ漁に進出。パラオでアメリカ向けの鮪油詰め缶詰の輸出を開始。
  • 1940年 戦時統制に協力する形で、南方漁場の開拓を進める一方、併せて戦時徴用船として軍とともに展開した。
  • 1941年
    • 大型漁船の徴用により、焼津の漁業は壊滅的な打撃を受けた。この時点で、焼津港の徴用船は85隻、うち1940年以降の徴用船で無事に帰還したのは僅か10隻余りだったという。
    • 焼津鮮魚介出荷統制組合による完全な配給統制出荷が始まる。
  • 1942年 焼津港の漁船の8割が徴用され、尚且つその必要量の2割しか燃料油が支給されなかった。
  • 1943年 こうした戦時下で、焼津の各組合、企業は、軍の展開と共に、積極的に南方海域の開発を続けた。 
    • 2月 第一次南方開発派遣団7隻が焼津港を出港。
    • 8月 第二次南方開発派遣団4隻が焼津港を出港。
  • 1944年 
    • 2月 南方に展開していた軍隊の玉砕が始まる。クサイの南興水産各基地は壊滅的な状態になる。
    • 4月 第三次南方開発派遣団が焼津港を出港。
    • 6月 アメリカ軍のサイパン島の上陸により、南興水産サイパン営業所所員の大半が戦死。
    • 8月 第三次南方開発派遣団の船が沈没。
    • 9月 第四次南方開発派遣団が焼津港を出港。
    • 10月 フィリピン方面の派遣団に現地召集がかかる。11月、現地の指揮下に入る。
  • 1945年 マニラ攻防戦、現地徴用された開発団団員からも多数の死者、捕虜が出る。そして終戦を迎えた。

  焼津漁業組合は戦況に応じて組織を改編し、焼津港の漁船の南方開発がそのまま徴用された結果となった。

徴用漁船の使用分類

陸軍
  1. 日中戦争の初期では、暁部隊輸送部隊に配属され、港内での本船と着船場間の輸送[1]や、揚子江をはじめとする河川・水路沿岸地域での弾薬や食料などの軍需品輸送[1]、上海より上流の九江を輸送基地としての南京、漢口方面への軍需品輸送に当たっていた。水路が輻輳する華中・華南地方では、輸送のために小型船舶が必須とされたという事情があった[1]
  2. 太平洋戦争開戦後は南方にも派遣され、中国戦線と同様に軍需品などの輸送に従事した[2]。当初は沿岸や狭水路等での輸送任務が主体であったが、1942年頃からは制空権喪失下での隠密輸送・強行輸送にも動員され、被害が急増することとなった[2]
  3. 南方に展開している兵隊に対する魚の提供目的に、漁獲、運搬した。
海軍
海軍に徴用された船舶は、すべて「特設」(特設艦船)として32種類に分類された。
  1. 漁船は一般徴用(裸徴用)ともいわれ、雑用船として使用された。
  2. その後、特設監視艇として、北東太平洋に展開している米軍を監視し、無線で連絡した。しかし、その無線内容はほとんど米軍に解読され、日本軍および徴用船の被害を拡大させることになった。
  3. 軽武装を施し、南洋群島に展開する海軍に、砲艇として配属された漁船もあった。なかには、日本軍艦を狙った米軍の魚雷の楯となった漁船もあったという。
農林省
農林省が募集した船舶は、「特殊漁船」として徴用した。
  1. 「特殊漁船」は、海軍の管轄に置かれ、海軍から支給される燃料を使って、海上監視しながら漁獲操業をした。漁獲物は海軍が優先買いをし、余ったものを三崎港で販売し、軍からは最低補償を支給された。
  2. これら特殊漁船は、戦争末期には、操業中に、急遽、戦没した監視艇の代用船として配属された漁船もあった。
  3. 北海道への物資輸送として、青函連絡船の不足補充にあてられた漁船もあった。
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申し合わせ・願書・陳情書

  • 1938年 焼津、東益津、小川の各漁業組合で、漁船徴用に関する申し合わせを決定。
  • 1940年
    • 徴用船覚書: 徴用する船や乗組員の選出方法を決める。
    • 焼津鰹節商組合長 村松正之助が「八紘一宇」を主張。
  • 1941年
    • 徴用船申し合わせ: 軍属船乗組員の選出方法を決める。(帰還兵、徴用帰郷者は、満2ヶ年は選出されないなど)
    • 焼津鰹節生産有限会社で、「宣戦の大詔に応え奉る打ち合わせ会」が開催される。
  • 1942年 有限会社皇道産業焼津践団取締役社長 村松正之助が陸軍大臣 東条英機 宛に 願書を提出。

  「大東亜共栄圏建設の先駆たらん熱意を抱き、練成待機すること…」などと記し、徴用に積極的な姿勢を示した。

  • 1943年 大手船元、昭和漁業株式会社などは、徴用船貸出し会社と化し、操業がままならない状況に陥った。

  そのため、補償に関する内容を申し合わせた。

  • 1945年
    • このころ有限会社皇道産業焼津践団は、東海軍管区経理部作業班という名称で、会社ごと徴用された。
    • 終戦、武装解除後、団員 約二百名が捕虜となる
  • 1946年 昭和漁業株式会社などは、国に「陳情書」を提出。(徴用漁船補償金凍結解除要求)

戦時中、軍部は、徴用船に対して補償内容を提示していたものの、終戦後は補償金は凍結されたままであった。

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焼津港の徴用船数と犠牲被害数

詳細な数は不明だが、民家などに保存されていた資料などを合わせると、

  • 1937年 4隻
  • 1938年 20隻
  • 1939年 不明
  • 1940年 18隻
  • 1941年 22隻 (沈没船:1隻 戦死者:3人)
  • 1942年 7隻 (沈没船:2隻 戦死者:7人)
  • 1943年 15隻 (沈没船:3隻 戦死者:54人)
  • 1944年 23隻 (沈没船:31隻 戦死者:170人)
  • 1945年 8隻 (沈没船:22隻 戦死者:164人)

わかっているだけでも、合計、113隻が徴用され、59隻が沈没、犠牲者は 401人にのぼった。 この他に、1945年、沿岸で操業中の焼津漁船 7隻が米軍機の攻撃を受け、18人が死亡、9人の負傷者が出た。また、港に係留中の船が空襲に遭い、多くの船が炎上、沈没したという。詳細な内訳は付表を参照。

焼津港の漁船数の変化

  • 1938年 漁船の総数:113隻 (動力船:105隻、無動力船:8隻)
  • 1945年 漁船の総数: 18隻 (鉄鋼船:6隻、木造船:12隻)

徴用船の乗組員

具体的な名簿は見つかっていないが、当時、焼津港には全国から多数の出稼ぎの船員が集まっていた。また、焼津周辺地域の農家も、農閑期には船員として乗り込んでいたという。必ずしも全員が軍属として登録されていたとは限らなかったようだ。

付表

要約
視点

徴用船の動向

今まで判明したそれぞれの徴用漁船の動向を簡単にをまとめると、

さらに見る 徴用年月, 漁船名 ...
  • 聞き取り調査によれば、他にも徴用された漁船があるというが、ここでは確認が取れたものだけ記した。1939年分については未だ資料が発見されていない。また、ここに記されていない1937年の4隻については、船名こそ分からないが、4隻の徴用があったという記録がある。
  • 再徴用された船舶は、この表に記した船舶の他にもあるという。また、一般操業中に徴用されたり、戦況に応じて転属された船舶もあったという証言もある。
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脚注

参考文献

外部リンク

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