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熱砂の舞 (1926年の映画)

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熱砂の舞 (1926年の映画)
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熱砂の舞』(ねっさのまい、The Son of the Sheik)は、1926年に公開されたアメリカ合衆国アドベンチャードラマ映画サイレント。原作はE・M・ハル英語版恋愛小説『The Sons of the Sheik』。1921年のヒット作『シーク』(1921年)の続編で、ルドルフ・ヴァレンティノは前作の主人公シークとその息子で本作の主人公アーメドの二役を演じた[3]。共演はヴィルマ・バンキー英語版。監督はジョージ・フィッツモーリス英語版

概要 熱砂の舞, 監督 ...
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バンキー(左)とヴァレンティノ

この映画の全国公開の2週間前、ヴァレンティノは腹膜炎により31歳の若さで亡くなり、『熱砂の舞』はヴァレンティノの遺作になった。

2003年アメリカ議会図書館は「文化的、歴史的、審美的に重要」なものとして『熱砂の舞』をアメリカ国立フィルム登録簿に保存した[4]

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あらすじ

シークの息子アーメドと旅芸人一座の踊り子ヤスミンは恋に落ちる。アーメドははるばる一座のテントまで会いにゆくが、ヤスミンに横恋慕するガーバらに捕まり拷問を受ける。ガーバはアーメドを人質に身代金を要求しようとさえするが、アーメドは仲間のラマダンたちにより救出される。

アーメドは傷の手当のため、トゥーグラの友人の家で静養している。その町に旅芸人一座が巡業でやってくる。ヤスミンは再会を喜ぶが、アーメドは先日の仕打ちはヤスミンの仕業と誤解している。アーメドは復讐のためヤスミンを誘拐し、砂漠のキャンプに幽閉する。

そのキャンプを父親のシークが訪問する。父親に叱咤され、アーメドはヤスミンを解放する。ラマダンが同行するが、二人ともガーバに捕まってしまう。

ヤスミンのことが忘れられないアーメドのところに、敵の手から逃れたラマダンが戻ってくる。ヤスミンが事件に関係ないことを知らされたアーメドはヤスミンの救出に向かう。ガーバとの対決に勝利し、アーメドはヤスミンとめでたく結ばれる。

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キャスト

  • アーメド/シーク:ルドルフ・ヴァレンティノ
  • ヤスミン:ヴィルマ・バンキー英語版
  • アンドレ:ジョージ・フォーセット英語版 - ヤスミンの父。一座のリーダー。
  • ガーバ:モンタギュー・ラヴ 英語版
  • ラマダン:カール・デイン
  • 香具師のアリ:ブル・モンタナ
  • 香具師のピンシャー:ビュンスキー・ハイマン
  • ダイアナ:アグネス・エアーズ - シークの妻でアーメドの母。前作『シーク』のヒロイン。

制作

1921年に『黙示録の四騎士』と『シーク』の大ヒットで国際的スターの地位を確立したヴァレンティノだったが[5]1924年、これまでの「世界の恋人」のイメージからの脱却を図った『ボーケール英語版』と『情熱の悪鬼英語版』が興行的に失敗。1925年、ヴァレンティノがフェイマス・プレイヤーズ・ラスキー 英語版からユナイテッド・アーティスツに移籍すると[6]、社長のジョセフ・M・シェンクは『シーク』の続編にあたるE・M・ハル英語版の小説『The Sons of the Sheik』の映画化権を獲得[3][7]。この映画でヴァレンティノの人気を取り戻すつもりだった[6]

脚本を担当したのは2人の女性脚本家、フランシス・マリオンとフレッド・デ・グレサック[3]

撮影はアリゾナ州ユマ砂漠カリフォルニア州で行われた[8]

公開

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1926年9月25日『Motion Picture News』紙、表紙の広告

封切りは1926年7月9日ロサンゼルスのミリオン・ダラー・シアター[9]。4週間上映された[10]

ヴァレンティノは全国公開を前にプロモーションとして各都市を回っていたが、8月15日ニューヨークのホテルで倒れ、緊急入院。穿孔性潰瘍が見つかり手術をするが、手術後、腹膜炎を発症、8月23日に亡くなった[11]

その2週間後、1926年9月5日に『熱砂の舞』は全国公開。1年で1,000,000ドル、最終的にはその倍以上の収入を得た[12]

評価

一部の批評家はヴァレンティノ最高の演技と評価した[13]

出典

外部リンク

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