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犬飼源太郎

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犬飼 源太郎(いぬかい げんたろう、1869年8月28日(明治2年7月21日[1][2][3])- 1923年大正12年)9月11日[4][注釈 1])は、明治から大正期の政治家実業家衆議院議員、岡山県会議長。号・竹荘、柿園[1]

経歴

備中国都宇郡山地村[1][2]岡山県[4]都宇郡庄村を経て現倉敷市山地[2])で、犬飼篤太郎の長男として生れ[3]、1896年(明治29年)3月に家督を相続した[3]。1886年(明治19年)7月、東京成学館に入学し1888年(明治21年)に退学[1]。同年8月、明治法律学校(現明治大学)に入学し、政治学、法律学を修め、1891年(明治24年)7月に卒業した[1][2][3][4][5]

帰郷して1893年(明治26年)5月、庄村助役となる[1][2]。1896年(明治29年)2月、岡山県会議員に選出され連続3期在任し、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)には県会議長に就任[1][2]。この間、犬養毅を支えて「備中の犬飼、東備小橋」と称された[6]

坂本金弥の辞職に伴い1914年(大正3年)7月に実施された第11回衆議院議員総選挙岡山県郡部補欠選挙で当選し[1][2][7][8]、以後、第13回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[4]

また、花筵製造輸出業を営み、岡山県花筵同業組合長を務めるなど、花筵産業の育成に尽力した[1][3][4]

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国政選挙歴

親族

  • 祖父 犬飼松窓(漢学者)[1]

脚注

参考文献

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