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狩野雅信

1823-1879, 幕末~明治の狩野派の江戸幕府御用絵師、旗本。木挽町狩野家10代目。 ウィキペディアから

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狩野 雅信(かのう ただのぶ、文政6年2月14日1823年3月26日) - 明治12年(1879年8月8日)は、日本の幕末から明治時代に活動した狩野派江戸狩野)の江戸幕府御用絵師旗本。代々幕府の奥絵師を勤めた木挽町狩野家の10代目で、最後の当主。幼名は栄次郎。号は勝川(院)、素尚斎。

略伝

狩野養信の長男として江戸で生まれる。1844年天保15年)父と共に火災で消失した江戸城本丸御殿障壁画制作に従事した。翌1845年弘化2年)法眼に叙せられ、1861年文久元年)には法印に上った。14代将軍徳川家茂の寵愛を受け、江戸北町奉行を務めた鍋島直孝の娘を娶り、1863年文久3年)の家茂上洛にも付き従っている。しかし戊辰戦争時には、旧幕府軍から江戸脱走を勧誘されるも雅信はそれに応じず、その時の書状を焼き捨て新政府へ配慮している[1]

明治維新に際し、江戸狩野の奥絵師四家のうち鍛冶橋狩野家は徳川宗家に従い、残り三家は1870年(明治3年)御暇を仰せ付けられ平民になったという[2]。これを裏付けるように『太政類典』収録の「行政官支配姓名簿」に「高三百石 内百俵蔵米 狩野勝川院」の記載から明治初期には朝臣化し、「東京府・市文書」(東京都公文書館蔵)内の「明治二年 朝臣姓名」から明治2年12月以降は東京府の所管になったことが解る[3]。また明治2年夏には延遼館障壁画を、狩野永悳狩野董川らと共に制作する[3]。一方、朝臣化した幕臣として東京府内の警備・治安維持の仕事を割り当てられ、身分は武士ではあっても武芸を殆ど習得していない雅信らはこれを免除するよう願い出た嘆願書が残っている[3]

1872年(明治5年)に火事で木挽町の家宅が焼け、更に敷地も上地となった[4]ため、飯田町にある妻の実家鍋島家に住む。軍部から製図制作を勧められたが、「画家たる者何ぞ製図を事とせむや」と御用絵師の矜持からこれを固辞し[4]、晩年は悠々自適の生活を送ったとされる。しかし新政府の仕事を全く受けなかったのではなく、博覧会の事務局に雇われている。明治5年には博物局編『古人肖像集』の挿絵を手がけ、1876年(明治9年)のフィラデルフィア万国博覧会や、翌年の第1回内国勧業博覧会に関わる。1878年(明治11年)のパリ万国博覧会では手当15円を支給され、翌年には大蔵省から月給20円で雇われている[1]。他にも外貨を得るため、外国に日本の物産製品を紹介する解説書『日本製品図説 錦画』(高雲外編、明治10年刊)の挿絵を担当している。しかし、やはり生活は苦しかったらしく、木挽町狩野家の知行地のあった樋ノ口村(現在の埼玉県久喜市樋ノ口[5])の組頭に、米や下肥代金の援助を頼む手紙が残っている[6]

弟子に、狩野芳崖橋本雅邦木村立嶽狩野友信結城正明青野桑州柳田龍雪、松原寛泉斎、陶山勝寂、三浦治作などがいる。芳崖から「師は絵を知り給わず」と吐き捨てられたという逸話[7]や、後の岡倉覚三(天心)から厳しく評価されるなど、画才は凡庸だったとされることが多い。確かに水墨画を中心にそう評価されても仕方がない作品もあるが、着色画には豊かな色彩と細密な描写に見所ある作品も残っている。

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代表作

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脚注

参考文献

関連項目

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