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産業スパイ (映画)

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産業スパイ」(さんぎょうスパイ)は、1968年5月21日公開の日本映画。主演・梅宮辰夫[1]、監督・工藤栄一 [2]東映京都撮影所製作、東映配給[3][4]

概要 産業スパイ, 監督 ...

企業の使命を征する技術戦争の渦中にあって、堅固極まる巨大企業からの機密奪取と産業スパイ同士の抜きつ抜かれつの激烈な競争をドキュメンタリータッチ[注 1]で描いたスパイアクション[3][5][6]

出演

スタッフ

製作

企画

企画は岡田茂東映京都撮影所(以下、東映京都)所長[2][注 2]。当時、梶山季之小説赤いダイヤ』や『黒の試走車』などで"産業スパイ"が流行語になったことで、タイトルもそのまま借用した便乗映画である[2]。原作はなく脚本は野上龍雄のオリジナル[6]。公開当時の文献にタイトルが『産業スパイ・機密情報』と書かれたものがある[7]

梅宮辰夫東映東京撮影所(以下、東映東京)に所属する俳優だが、東映東京で人気シリーズになった「夜の青春シリーズ」がやや下火になったことで[2]、梅宮の売り出しを思案していた岡田が、梅宮を東映京都に連れて来て、梅宮主演で新機軸、新シリーズを敷けないかと目論んだ[2]。監督の工藤栄一は、任侠映画が体質に合わず[8]、岡田が時代劇から任侠路線の切り換えを推進したため[8]、演出の機会を減らしていた[8]

キャスティング

アンナ役の実川マリは、梅宮がスカウトした銀座の高級クラブ「シルクロード」のホステス[9][10]。大信田礼子ですら「すごいグラマーね」と目を見張るボイン[10]。日本とアメリカ混血で21歳[10]。監督も驚く脱ぎっぷりのよさで、フルヌードになり[9][10]、梅宮と濃厚なベッドシーンも演じた[9]。映画出演は本作1本と見られ、その後も「シルクロード」のホステスとして働いた[10]

影響

大信田礼子ファッションモデルとして1966年に渡辺プロダクションと契約し[7][11]、1967年に契約切れの後[7]、一時フリーになり[7]、その後日本企画という事務所に所属した[7][12][13]。大信田の女優業進出は勝新太郎の押しがあったとされ[14]、一説に梅宮に売名行為で接近したともいわれ[12]、1968年6月、東映と準専属契約を結んだ[11][12]。本作で東映初出演し梅宮と共演[15]、キスシーンもあった[7][16]。梅宮との仲は週刊誌にも書き立てられたが、大信田は保護者のような存在だったと話している[16]。当時の大信田はファッションモデルとして男性誌のグラビアを飾り、ファン層は男子学生だったため[7]、「東映映画になんか出るな。キスは絶対しないで欲しい」というファンレターが送り付けられた[7]。当時の東映は岡田企画製作本部長が標榜する"不良性感度映画"が本格化[17]。本作で女スパイ&ダンサーを演じた大信田の身長165cm、B90cm、W58cm、H89cm(1968年7月)という[7]大柄な肉体美に可能性を感じた東映幹部は[11]、大信田の売り出しにかかった[12][18]。主演第一作として大信田のヌードを想定し『赤線浮世風呂』( 『トルコ風呂』)を企画[14]。しかし大信田がヌードを拒否したため[11]、代わりに大原麗子が抜擢され、大原の初主演映画となった[11]。大信田は東映の出演を契機に注目を浴びた[19]。当時は頑なに脱がなかったが[19]、露出度マン点の衣装は[12]、新時代のヴァンプ女優を感じさせ、人気に火が付いた[12][19]。多くの東映作品に出演したが、中でも東映京都製作のテレビドラマ旅がらすくれないお仙』と東映東京製作の映画「ずべ公番長シリーズ」は当たり役として知られる[19][20]

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同時上映

馬賊やくざ

脚注

注釈

  1. 後年の東映実録路線を説明する際によく用いられた"ドキュメンタリータッチ"という言葉は、本作を紹介した『映画時報』1968年7月号の記事に既に見られる[5]
  2. 本作公開直後に企画製作本部長就任。

出典

参考文献

外部リンク

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