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旅がらすくれないお仙
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『旅がらすくれないお仙』(たびがらすくれないおせん)はNETテレビ(現・テレビ朝日)の毎週日曜20時枠で1968年10月6日から1969年9月28日まで放送された連続テレビ時代劇[1]。全52話。モノクロ作品。
概要
女剣劇で売った松山容子が着物の裾を振り乱し、大信田礼子が若さとボインにミニスタイルで虎の皮のパンチラで暴れまくり[2][3][4][5]、茶の間の人気を呼んだ女性2人による元祖「バディムービー時代劇」[5]。
当時人気を博していた『素浪人 月影兵庫』の女性版[6]。女性コンビを主人公にし、お色気にアクションを加えた点が新しく[3]、番組スタート以来、各局新番組を完全に食う人気ぶり[3]。第一回放送で視聴率22%(以下、視聴率はビデオリサーチ)を記録し[7]、6回目の『三匹の侍』『泥棒育ち ドロボーイ』『喧嘩太郎』『お吟さま』など、この秋の民放各局の新番組は宣伝費合計20億円といわれる大プロモーションを展開したが[8]、他局の新番組が軒並み総崩れを起こす中[7][8]、常時視聴率20%台を確保し[2][9]、一時はテレビ界の人気を一手にかっさらうほどの騒ぎを呼んだ[6]。紙芝居と揶揄する声も出たが[10]、番組開始二ヵ月で視聴率28%を記録した[10]。『男はつらいよ』も同じ1クールの新番組の一つだったが[8]、第一回放送は関東8.9%、関西11.5%と振るわず[8]、『週刊文春』は「確実に20%を稼ぐ渥美清で勝負したんだが、完全に思惑外れ。ヤクザものはもうダメだね」と評していた[8]。
当初は1クールの放送予定が高視聴率を稼ぎ、1969年に入っても裏番組、NHK大河ドラマ『天と地』と互角に渡り合い[9][11]、1年、4クールに延長された[5]。
当時の昭和元禄、ハレハレムード[要校閲]のご時勢を反映して映画に続いてテレビも『11PM』のような深夜番組は勿論、『小川宏ショー』のような朝のワイドショーもエッチを盛り込み、『長谷川肇モーニングショー』では、ドクター奈良林祥が朝からセックス講座を行い、『桂小金治アフタヌーンショー』では、半裸美女モデルに浪越徳治郎が指圧を行うなどエロを盛り込んだ[2]。またテレビドラマも同じ東映製作の『大奥』や『キイハンター』、東宝・日本テレビ製作の『37階の男』、日本テレビ製作の『夜の主役』なども遠慮ないお色気シーンを売り物にし、各局エロをエスカレートさせていった[2]。中でもエロ描写で話題を呼んだのが『旅がらすくれないお仙』であった[2]。
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あらすじ
小太刀の名手で滅法強い女渡世人お仙と、ハネっかえりのグラマーな女スリお銀が男相手に巻き起こす珍道中[1][7][10]。
キャスト
放映リスト(サブタイトルリスト)
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スタッフ
- 原作:棚下照生
- 脚本:森田新、加藤泰、結束信二、伊勢野重任、本山大生、今村文人、松村正温、押川國秋、岸生朗、小沢英輔
- 監督:荒井岱志、河野寿一、佐々木康、林伸憲、長谷川安人、小野登、古市真也
- プロデューサー:上月信二、小沢英輔、高田正雄
- 音楽:小川寛興
- 主題歌:松山容子「旅がらすお仙の歌」(作詞:けっそくしんじ、作曲:小川寛興、販売元:キングレコード)
- 挿入歌:五木詩郎「晴れ姿道中節」
- 撮影:羽田辰治
- 照明:藤井光春
- 録音:矢部吉三
- 美術:塚本隆治
- 記録:桧垣久恵
- 編集:川上忠
- 衣裳:石倉元一
- 美粧:林三郎
- 結髪:河野節子
- 装飾:川端清
- 装置:木崎義夫
- 擬斗:土井淳之祐(東映剣会)
- 助監督:古市真也
- 進行:喜多外志之
- 現像:東洋現像所
- 制作:NET、東映京都テレビプロダクション
製作
キャスティング
テレビ初主演の大信田礼子は、東京でモデルデビューしていたが、芸能界に興味が持てず、京都に戻ってブラブラし、東映京都を見学していたところ、東映関係者に「月給25万円で出ないか」と誘われ出演を承諾した[5]。NETは松山容子と大信田のお色気で勝負を賭けたいと算段していたが[12]、松山が「脱ぐのは絶対にイヤ」と強硬に断ったため、お色気担当は大信田一人で担うことになった[12]。大信田は「名前を売り出すのは、清純派でいくより露出派の方が早い」と割り切った[12]。
撮影
撮影は東映京都撮影所(以下、東映京都)[13]。東映京都の実権を握る[14]同撮影所所長・岡田茂は[14]、1964年1月の京都撮影所所長就任以降、東映京都の映画製作は任侠映画を中心とし[15][16]、時代劇はテレビに徐々に移し、東映京都の映画ステージをテレビに渡していった[16][17]。岡田は1968年8月31日付けで映画本部長という、一つの映画会社の社長の立場に匹敵する大きな権限を更に持たされた[18]。
本作『旅がらすくれないお仙』撮影中の1969年3月頃に同撮影所で撮影中だったのは『戦後最大の賭場』『旅に出た極道』『緋牡丹博徒 二代目襲名』の映画が三本に対して、本作と『銭形平次』『素浪人花山大吉』『日本剣客伝』『帰って来た用心棒』『怪奇ロマン劇場・四谷怪談前編 後編』(以上 NET)、『あゝ忠臣蔵』(以上 フジ)、『妖術武芸帳』(TBS)『花のお江戸のすごい奴』(日本テレビ)とテレビドラマ撮影が8本というフル回転だった[13]。
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影響
1969年4月のテレビ番組改編期を前に、大信田が「歌をやりたいので3月で番組を降ろさせて下さい」と申し入れた[11]。大信田は歌手デビューに備え、いずみたくに師事し、いずみから「フェースもプロポーションもいいから結構いけるぞ」と太鼓判を押されていた[11]。大信田は少し前までナベプロに所属していて[11]、1時間物1本撮るのにロケ、アフレコなどを含め6日もかかる本作の撮影がギャラの割に合わないと不満があった[11]。大信田に降りられると視聴率の低下は免れず、NETと東映で協議し何とか大信田の続投を説得した[11]。前述のように1969年に入っても裏番組、『天と地』と互角に渡り合っていたが、日本テレビのバラエティ番組『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』が1969年4月から同じく裏で始まると視聴率がガタ落ちした[6]。しかし二年目に突入する1969年10月の番組改編期でも、松山&大信田コンビでのロングランを狙ったが[3]、今度はTBSテレビの帯ドラマに引き抜きの噂があった松山が降板を申し入れ[6]、松山と揉め[3]、三浦布美子か扇ひろこを松山の代役に構想したが[6]、やむなく大信田を残し、花園ひろみを起用して『緋剣流れ星お蘭』として模様替えした[3]。
1969年4月からは東映東京撮影所で製作した『プレイガール』(東京12チャンネル)も放送開始され、東映の東西撮影所で製作された作品が、時代劇及び現代劇に於ける"女性ハレンチアクションドラマ"の先駆けとなった[3]。両作品の成功で以降、各局が"女性アクションドラマ"をこぞって製作した[3]。また当時東映が製作した宮園純子主演の「妖艶毒婦伝シリーズ」二作目の『妖艶毒婦伝 人斬りお勝』で、本作に於ける大信田のスタイルをそのまま映画に持ち込み、大信田が宮園の相棒を演じる芸のなさで映画の衰退を物語るとの論調も出た[4]。
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放送局
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同時ネット
時差ネット
- 山形放送:木曜 15:05 - 16:00(1970年3月)→ 木曜 15:00 - 16:00(1970年4月 - 12月)[19]
- 東北放送:日曜 15:30 - 16:30[20]
- 福島中央テレビ(1970年4月1日の開局から放送):月曜 - 金曜 17:00 - 17:56[21]
- 新潟総合テレビ(1968年12月 - )
- 山梨放送:土曜 16:30 - 17:26[22]
- 北日本放送
- 北陸放送
- 信越放送
- 静岡放送
- 名古屋テレビ
- 日本海テレビ
- 山陰放送
- 中国放送:土曜 16:00 - 17:00[23]
- 四国放送:土曜 14:30 - 15:30(約3か月遅れ[24])
- 長崎放送
- 南日本放送
- 沖縄テレビ
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フィルム・ソフト状況
- 本作品のポジフィルムの現存状況について、東映には第5話「伜と呼びたい」の保存が確認されており、それ以外は行方不明になっている。
脚注
関連項目
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