トップQs
タイムライン
チャット
視点

曽我廼家明蝶

日本の俳優 ウィキペディアから

曽我廼家明蝶
Remove ads

曽我廼家 明蝶(そがのや めいちょう、本名:北村 弘一(きたむら ひろかず)、1908年明治41年〉6月3日 - 1999年平成11年〉4月13日)は、日本俳優兵庫県明石市出身。旧字体「曾我廼家明蝶」。

概要 そがのや めいちょう 曽我廼家 明蝶, 本名 ...
Remove ads

来歴・人物

明石の寺の次男坊として生まれるが、まもなく大阪・船場の呉服商の養子となる。成器商業を経て東京の明治学院に進むも中退する。芝居の台本作家をめざして栗島すみ子の父・栗島狭衣の紹介で、1927年明石潮一座に文芸部員として入る。同期には伴淳三郎河津清三郎が俳優部にいた(河津は同級生でもある)。1928年に俳優の欠員から舞台にかりだされたのがきっかけで俳優に転じ、その後は曾我廼家五郎劇団に移籍し二枚目として活躍する。

戦後は1948年に五郎が亡くなったことから、同じ劇団の曾我廼家五郎八らと松竹新喜劇の旗揚げに参加する。2代目渋谷天外藤山寛美、五郎八と共に1963年8月に退団するまで中心俳優として活躍。以後はフリーとして舞台のみならず映画、テレビドラマにも準主役クラスで数多く出演した。また、山崎豊子作品の常連でもあった。

1975年喜劇人協会の会長となる。1964年から1972年まで明蝶芸術学院も主宰し、後進の育成にも力を注いだ。

田宮二郎主演のテレビドラマ『白い巨塔』(1978年)では主人公・財前五郎の義父・財前又一役を流暢な関西弁でユーモアたっぷりに演じた。同作放送終了目前に自殺した田宮の葬儀では、葬儀委員長を務めた。1978年、紫綬褒章受章。

1987年頃から心臓が悪化し芸能活動を引退。1986年、京都・南座での「陽暉楼」が最後の舞台となり、テレビ出演は1996年9月、桂米朝司会の朝日放送「関西偉人館」が最後であった[1]。その後、1999年4月13日午後1時44分に呼吸不全のため、大阪府堺市の病院で死去。90歳没[2]

Remove ads

家族

ギャラリー

出演作品

テレビドラマ

映画

舞台

  • 道頓堀(芸術座
  • 狐狸狐狸ばなし
  • 三婆
  • 越前竹人形
  • 残菊物語

バラエティ

CM

受賞歴

Remove ads

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads