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田北鎮周
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田北 鎮周(たきた しげかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。
経歴
田北氏は豊後国大友氏の庶流で直入郡田北村を本貫とする。早くから本家筋の大友義鎮(宗麟)に仕え、その偏諱を賜って鎮周と名乗る。跡取り息子がいない兄・田北紹鉄の嗣養子となって家督を継いだ。時期は不明だが宗麟の姪と結婚しており、妻の兄か弟である一条兼定や日向の伊東義益とは義兄弟という間柄になる。武勇に優れ、永禄8年(1565年)、兄の紹鉄に従い、豊前の長野祐盛攻めに参加。1560年代には毛利氏との戦いで、永禄11年(1568年)には立花鑑載の反乱鎮圧やその後は豊前の杉重良のいる松山城を兄らとともに攻めたが、攻略はできなかったようである。この後も豊前北部で毛利勢と戦う。毛利氏との戦いで武功を挙げてたという。
立花鑑載の攻略後、もう一人の兄・田北鑑益が立花城の守将になっていた。永禄12年(1569年)3月、吉川元春、小早川隆景率いる毛利軍・約4万の大軍が九州に上陸すると、兄の援軍として立花城に入城。吉川元春勢と戦った。毛利側の史料『陰徳太平記』を見ると立花城を守る大友勢は鉄砲で交戦していたことが記されている。しかし吉川元春に水の手を断たれ、玉砕する枯れ死ぬかを迫られた。降伏を決めた兄鑑益が機転により、ある毛利家臣に城兵の助命の仲介を働きかけ、これにより毛利元就は鎮周を含む城兵を全員助命にした。この後、宗麟から吉弘鎮信、一萬田鎮実と共に補給部隊を警護しながら行う兵站奉行を命じられ、その任に就く。天正2年(1574年)に大友の加判衆(家老、老中のこと)になった。
天正6年(1578年)、耳川の戦いでは前哨戦である土持親成攻めでまたも武功を挙げるなど活躍する。その後も大友軍の先鋒として山田有信が守る日向国高城に攻め寄せたが、このとき大友軍は既に主君・宗麟がキリスト教に傾倒し、他の武将も戦意が低いなどの問題があった。このため、鎮周は味方を鼓舞するため無謀にも敵軍に突撃し、それに釣られる形で大友軍が出撃し陣形が伸びきったところを島津軍に突かれ大敗した。(耳川の戦い)享年36。これ以降、大友氏は没落することになる。
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その後の田北氏
鎮周の跡は吉弘氏から婿養子に入った鎮生(しげなり、のち統員に改名)が継承した(実子の鎮述(しげのぶ、日差城主)は早世していたものと思われる)。鎮周の戦死後の天正8年(1580年)、田北氏の惣領であった紹鉄が反乱を起こし討伐されると、統員が田北氏の家督を継承し、のち豊薩合戦の際に佐伯惟定と共に島津軍と抗戦した。その後、主君の大友吉統が改易されると、一時立花宗茂の家臣となって吉弘掃部介と称した。立花家改易後、統員は浪人して清成作平と改名し、寛永9年(1632年)には肥後国に移住して細川忠利に仕えたとされ、名を吉弘紹傳に改めた[8]。統員の子・統生(むねなり)の家系は日差村の大庄屋として続いたともいわれている。
脚注
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