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一条房基
日本の戦国時代の公家・大名 ウィキペディアから
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一条 房基(いちじょう ふさもと)は、戦国時代の公家・大名。権中納言・一条房冬の子。土佐一条氏の第3代当主[2]。
生涯
享禄3年(1530年)、従五位下に叙爵し、享禄5年(1532年)右近衛中将に任官する。
天文6年(1537年)、従四位下に叙せられるが引き続き中将を兼ねると、天文8年(1539年)に従四位上、次いで正四位下と昇進し、天文9年(1540年)には従三位に叙せられて公卿に列し、三位中将となった。
天文10年(1541年)、阿波権守を兼ねるが、同年11月の父・房冬の死後、家督を継いだ。
房基は智勇に優れた人物で、天文13年(1544年)には長宗我部国親と本山茂宗の縁組と和平の仲介を行う一方、自身は領土拡大するなど、一条家の勢力拡大に成功している。天文11年(1542年)に謀反を起こした津野基高(つの もとたか)を破ると、天文15年(1546年)には津野氏を降伏させ、同じ頃に大平氏の本拠地の蓮池城を奪い、高岡郡一帯が一条氏の支配下に入った[3]。また、伊予国南部への進出を図るなど、房基の代に土佐一条氏は勢威を拡大した。
しかし、天文18年(1549年)4月12日、房基は自害した。理由は明らかでなく、狂気によるとも[4]、暗殺された可能性も指摘されている[5]。享年28。最終官位は従三位・右近衛中将兼阿波権守。
土佐一条氏は嫡男の兼定が継いだ。墓は光寿寺にあったが、同寺の廃寺後、墓の所在が不明となった。後に供養墓が再建されている。
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偏諱を与えた人物
- 津野基高 - 津野氏当主。前述の通り、謀反を起こして敗れ房基に臣従。
官歴
『諸家伝』による。
系譜
『諸家伝』による。
脚注
参考文献
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