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田辺九万三

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田辺 九万三(たなべ くまぞう、1888年3月9日 - 1955年6月12日)は、日本ラグビーフットボール協会第2代会長。

来歴

神奈川県横須賀市浦賀で生まれる[1]

1902年(明治35年)、慶應義塾普通部(中学)に入学し端艇部(ボート部)に所属。普通部3年生(中学3年生)からラグビーを始めた[1]

1906年(明治39年)11月、慶應義塾とYC&ACとの9回目の対戦で、公式戦にフォワード(FW)として初出場[1]

1910年(明治43年)、慶應義塾大学法学部2年時に慶應義塾體育會蹴球部の主将に就任。同年秋から、慶應義塾独自のFW7人体制(2-3-2 または 3-2-2)を採用した[1]。FW7人体制は、当時のオールブラックス(ニュージーランド代表)が採用しており、慶應義塾はその後17年間FW7人体制を守り、日本国内チームに対して無敗記録を続けた[2][3]

1911年(明治44年)4月6日、前年に日本で2番目に誕生した日本人ラグビーチーム第三高等学校嶽水会蹴球部(現・京都大学ラグビー部)と初対戦し、勝利した[4][1]

大学在学中は夏休みを中心に、地方の高校(旧制中学)や大学を訪問し、ラグビーの普及と指導を行った[5]

大学卒業後は、関西のOBクラブ「オール・ホワイト」こと関西ラグビー倶楽部(KRAC)に所属しプレーした[1]。KRACは、後(1925年)に関西ラグビーフットボール協会となる[6][7]

1926年(大正15年)11月30日に、日本ラグビー蹴球協会(日本ラグビーフットボール協会)が創立。役員人事は1928年(昭和3年)2月に決定し、名誉会長には関東協会会長の田中銀之助、副会長に高木喜寬、初代理事長に田辺九万三、会計役に香山蕃が就任、会長は候補から決めかねて空席となった(翌1929年に、副会長の高木喜寬が会長就任)[8]

1928年(昭和3年)、ルール統一の必要性から、理事長の田辺九万三が、橋本壽三郎を委員長とする「競技規則制定委員会」を組織して、「競技規則」を制定した[9]。現在の「競技規則」のルーツとなる。T(トライの後、ゴール失敗)が3点、G(トライとゴール成功)が5点、PG(ペナルティゴール)3点、DG(ドロップゴール)4点とされ、長さ単位はヤード・フィート制だった[10]

1953年(昭和28年)1月23日、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任した[11][12]

1955年(昭和30年)6月12日、協会会長として在任中に、狭心症のため横須賀市の自宅で死去。67歳没[1]。6月15日、秩父宮ラグビー場で2,000人を超える参列者による葬儀(協会葬)を行った[13][14]。同年8月発行の日本ラグビーフットボール協会機関紙「RUGBY FOOTBALL」第4巻5号(1955年8月号)は、「田辺会長追悼号」として特集した[15]

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書籍

  • 田邊九万三追懷録 - 1956年(昭和31年)12月、田邊九万三追懷録編纂委員会[16]

出典

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