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ラグビーニュージーランド代表

ラグビーユニオン競技のニュージーランド代表チーム ウィキペディアから

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ラグビーニュージーランド代表英語: New Zealand national rugby union team)は、ニュージーランドラグビーユニオンナショナルチーム。愛称は「オールブラックス」 (英語: All Blacks)。エンブレムはシルバー・ファーンシダの葉)。

概要 ユニオン, 愛称 ...
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概要

試合の前に、ニュージーランドの先住民であるマオリの伝統舞踊「ハカ」(カマテ、カパオパンゴ)を行う。

チームの初戦は1884年にオーストラリアニューサウスウェールズ州で行われた。最初の国代表試合(テストマッチ)は1903年にオーストラリアのシドニーオーストラリア代表と対戦した。翌1904年、ホームでの初のテストマッチとして、ウェリントンでイギリス諸島のチームと対戦した。1905年にはヨーロッパと北米で34試合を戦ったが、テストマッチ5試合のうち、ウェールズ代表との初テストマッチで1敗しただけだった。

1996年からラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)およびオーストラリア代表(ワラビーズ)との国際対抗戦トライネイションズを開催し、2012年からは新たにラグビーアルゼンチン代表を加えたザ・ラグビーチャンピオンシップを開催している[1]

ユニフォームとチーム愛称

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シルバーファーンを意匠にした旗の一例。
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1905年のジャージ。肩当ての布で補強され、紐で結ぶストリングネック仕様。

1884年のオーストラリア遠征では、紺色のジャージを着用し、ジャンパーの左側に金色のファーン(シダの葉)の紋章を付けた[2]

1893年にニュージーランドラグビー協会が設立されたとき、シダ類の一種であるシルバー・ファーンがあしらわれた黒のジャージと、白のショーツまたはニッカーボッカーズだった[3]

1901年に全身黒のユニフォームとなり、オーストラリアのニューサウスウェールズ代表と対戦した[3]

1905年から1906年にかけてブリテン諸島遠征を行ったニュージーランド代表チームは、現在「オリジナルズ (The Originals)」と呼ばれる。

オリジナルズの一人、ビリー・ウォーラスは、ロンドンの新聞が代表チームの戦いぶりを評して、全員バックスのように戦うと書きたてたことから「オールバックス」と呼ばれるようになり、それが誤植などで変じて「オールブラックス」になった、と述べている[4]。しかし実際は、前述のとおり、遠征前から全身黒のユニフォームにより すでに「オールブラックス」と呼ばれており、ブリテン諸島遠征での活躍により愛称が定着した[4]

「ALL BLACKS」は、ニュージーランドラグビー協会登録商標である[5]

1990年創設の女子ニュージーランド代表の愛称は、ブラックファーンズ (Black Ferns) である。

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1925年から1999年まで75年間に渡り、カンタベリー・オブ・ニュージーランドと公式サプライヤー契約を結び、ユニフォームを提供していた。1999年シーズンからは、アディダスと公式サプライヤー契約を結んでいる。

2012年シーズンから保険会社AIGが公式スポンサー契約を締結し、初めて、ジャージの前面にロゴ「AIG」を入れた。2022年からは、フランスの建設資材企業アルトラッドグループが、ジャージ前面のロゴ「ALTRAD」を掲出している[6]

代表資格とサバティカル

海外チームでプレーする選手は、ニュージーランド代表資格を持てないというニュージーランド協会独自の規定がある。その例外規定として「サバティカル(sabbatical、日本語の『長期休暇』に相当)」があり、1年間の休暇を利用して海外でプレーをすることができる。これを利用し、季節が半年ずれている日本のリーグワンなど北半球で、多くのオールブラックス選手が活躍している[7][8][9][10]

天理大学ラグビー部

1925年(大正14年)、天理大学の前身である天理外国語学校が開校した年の6月に、ラグビー部を創設。創部まもなく、天理教の二代真柱中山正善は、オールブラックスのユニフォーム、パンツ、ストッキングを15組、ラグビー部に寄贈した[11]。現在、天理大学ラグビー部のユニフォームは、オールブラックスと同じく前身黒色である。

歴史

要約
視点

ラグビー王国の誕生

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1905年 - 1906年に北半球遠征を行ったオリジナル・オールブラックスメンバー。
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1905年に掲載された英国の風刺漫画雑誌パンチの1ページ。当時の風刺画ではブリテン諸島代表を強靭なライオン、オールブラックスを足の速いピューマに見立てた。

ニュージーランドへのラグビー伝来は医学者で政治家のデビッド・モンロ(出身はスコットランドエジンバラ)の息子であるC.J.モンロにより伝えられた説が有力である[12]。C.J.モンロは留学先のロンドンでラグビーと出会い1860年代後半にニュージーランドへ伝えたとされている[13]。1870年5月にネルソン・カレッジとネルソン・クラブとの間でラグビーの試合が開催された[14] 。1882年にサザンラグビー協会(現:ニューサウスウェールズ州ラグビー協会)がニュージーランド遠征を行い[15]、1888年にブリテン諸島チーム(イングランド、スコットランドおよびウェールズの選手から構成)がニュージーランド遠征を行った[16]

1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(NZRFU、現在のニュージーランド・ラグビー協会(NZRU))が設立され、1893年にニューサウスウェールズ州へ遠征。翌年にはニューサウスウェールズを招き初のホーム試合を開催。公式な初のテストマッチは1903年にシドニーで開催されたラグビーオーストラリア代表(ワラビーズ)との試合になる。

1905年から1906年にかけ初の北半球遠征(ブリテン諸島フランスアメリカ合衆国)を行った際にオールブラックスと呼ばれるようになったとされる(詳細は#ニックネームを参照)。この北半球遠征に帯同したメンバー27名は“オリジナル・オールブラックス”と呼ばれ、伝説のチームとされている。この遠征成績は35戦34勝1敗、うちテストマッチ5戦4勝1敗。

1921年にラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)がニュージーランド遠征を行い、1928年にはオールブラックスが南アフリカへ遠征。この遠征試合はともに引き分けとなった。

1924年から1925年にかけて行われたブリテン諸島・フランス・カナダ遠征では32戦全勝(うちテストマッチ4戦全勝)を達成。この遠征メンバーは“インヴィンシブル(無敵艦隊)”と称された。

1932年よりワラビーズとの国際対抗戦「ブレディスローカップ」を開催。

1965年から1969年にかけてテストマッチ17連勝を達成。

1976年に当時人種隔離政策(アパルトヘイト)により国際社会から強い批判を受けていた南アフリカへオールブラックスを派遣したことからアフリカ諸国がモントリオールオリンピックをボイコットするなど国際問題へ発展。

1978年の北半球遠征ではホーム・ネイションズの4チームと対戦し全勝、グランドスラムを達成。

初開催となるラグビーワールドカップ1987で優勝。ジョン・カーワンとクレイグ・グリーンが6トライを挙げトライ王に輝く。ラグビーワールドカップ1991では準決勝でワラビーズに敗れ3位に終わる。

ラグビーワールドカップ1995では優勝候補から外れ、ヘッドコーチのローリー・メインズはベテランのグレアム・バショップ、ジンザン・ブルックを復帰させる一方、新戦力のジョナ・ロムーアンドリュー・マーティンズジョシュ・クロンフェルドらを起用し新旧融合チームを結成。下馬評を覆し決勝へ進出。決勝はスプリングボクスと大会初となる延長戦に突入するも3点差で2位に終わる。メインズは辞任し、ヘッドコーチにノンキャップの知将ジョン・ハートが就任。

ハート就任後は1996年から始まったトライネイションズで2年連続全勝優勝するなど若手とベテランが噛み合ったラグビーワールドカップ1995での好調を維持する。

低迷期

長らくチームを支えたショーン・フィッツパトリック、ジンザン・ブルック、マイケル・ジョーンズ、フランク・バンス等のベテランが次々と代表を引退すると、1998年にブレディスローカップをワラビーズに明け渡すなど低迷期に突入、1998年から1999年の対ワラビーズは5戦1勝4敗と負け越す。ラグビーワールドカップ1999は準決勝でフランスに、3位決定戦でもスプリングボクスに敗れ4位に終わる。ハートは辞任しヘッドコーチにウェイン・スミスが就任。

スミス就任後の2000年、2001年のトライネイションズは2位に終わりブレディスローカップの奪回に失敗。スミスは更迭され当時37歳のジョン・ミッチェルがヘッドコーチに就任。ミッチェルは若手選手を中心にチーム編成を行い2002年・2003年のトライネイションズ優勝、2003年には5季ぶりにブレディスローカップの奪回に成功した。しかしラグビーワールドカップ2003は準決勝でワラビーズに敗れて3位。ミッチェルは辞任しグラハム・ヘンリーがヘッドコーチに就任。

復活

2004年にヘンリーがヘッドコーチに就任してから2006年までのテストマッチは33勝4敗、2004年11月以降は27勝2敗と圧倒的な強さを取り戻す。2005年11月の北半球遠征でホーム・ネイションズの4チームを相手に27年ぶり2度目のグランドスラム(全勝)を達成。その初戦ウェールズ戦と続くアイルランド戦では先発メンバーを全員入れ替えながらともに38点差で圧勝した。ラグビーワールドカップ2007は優勝の大本命とされたが、準々決勝でホスト国のフランスに敗れた。NZRUは新ヘッドコーチの選考を行うと表明し、ロビー・ディーンズとの指名争いが展開されたが、最終的にヘンリーの再任人事を発表。敗れたディーンズはワラビーズのヘッドコーチに就任した。この決定は賛否両論の議論を招いたが、2008年・2010年のトライネイションズ優勝と北半球遠征でグランドスラム達成、ブレディスローカップ3季連続防衛に成功するなど、勝率9割以上を言われるヘンリーの戦術は高い評価を得た。

2007年大会と同じく優勝候補の大本命とされたラグビーワールドカップ2011は圧倒的な強さで決勝まで進み悲願の優勝を果たした。この大会中、スタンドオフに3名の怪我人を出しながら優勝を果たし選手層の厚さを証明した。2011年シーズン終了後にヘンリーの勇退が発表され、ラグビーウェールズ代表時代から9年間に渡りヘンリーのアシスタントを務めたスティーブ・ハンセンがヘッドコーチに昇格した。

ハンセン就任後もオールブラックスの快進撃は止まらず、2013年には年間全勝となるテストマッチ14戦全勝を達成するなど、ブレディスローカップとザ・ラグビーチャンピオンシップ3季連続防衛に成功、2015年はザ・ラグビーチャンピオンシップの優勝こそワラビーズに奪われるもののブレディスローカップは防衛。本命視されて臨んだラグビーワールドカップ2015において優勝。ラグビーワールドカップ史上初の連覇を達成した。

ラグビーワールドカップ2019ではプールBを4戦全勝で1位通過。この中には、後に同大会を優勝するスプリングボクス戦が含まれていた。しかし、準決勝でイングランドに19-7で敗れ、ワールドカップ3連覇とはならなかった。3位決定戦ではウェールズ代表に40-17で勝利し3位が確定した。

フォスターHC時代

2019年12月11日(現地時間)、ハンセンのアシスタントを8年間務めたイアン・フォスターがヘッドコーチに就任した。

2022年7月9日、アイルランドに敗れ、世界ランキングはそれまでの2位から史上ワーストの4位に転落[17]。翌週7月16日もアイルランドに敗れた。

2022年南半球四カ国対抗ザ・ラグビーチャンピオンシップにおいて、8月7日の開幕戦で南アフリカに敗れた。これでテストマッチ3連敗となり、8月8日付の世界ランキングはチーム史上最低を更新し5位になった[18]

その後4位に戻したものの、8月27日に自国開催のアルゼンチン戦で歴史的敗北を喫し、8月29日付の世界ランキングで再び5位に落たが[19]、翌週には4位に戻した。

2022年10月29日、ランキング10位の日本代表と4年ぶり7回目の対戦を行い、38-31で辛勝した[20]

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世界ランキングと成績

要約
視点
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世界ランキング

2009年11月16日付から2019年8月12日付まで、509週連続で1位を記録していた。2019年8月17日に2位ウェールズが4位イングランドに勝利し、その前週に1位ニュージーランドが3位オーストラリアに敗れポイントを下げていたことで、2019年8月19日付ランキングで1位をウェールズに譲り、2位に落ちた[22]

長期にわたり3位以内をキープしていたが、2022年7月から8月にかけてテストマッチ3連敗を喫し、2022年8月8日付ランキングで5位に落ちた[23]。さらに8月29日付でも5位を記録した[19]

テストマッチ成績

2025年7月19日現在のテストマッチの対戦成績は以下の通り。

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ワールドカップ

トライネイションズとザ・ラグビーチャンピオンシップ

さらに見る トライネーションズ (1996–2011; 2020), 国/地域 ...
さらに見る ザ・ラグビーチャンピオンシップ (2012-), 国/地域 ...
さらに見る トライネーションズとザ・ラグビーチャンピオンシップを含めた全期間 (1996–), 国/地域 ...
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選手

要約
視点

現在の代表

ニュージーランド代表 ザ・ラグビーチャンピオンシップ2025 スコッド ※所属、 キャップ数(Cap)は、2025年8月4日現在[24] [25]

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インジュリーカバー(負傷などで欠員が生じたときにスコッド入りする選手)

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個人記録

日本への影響

オールブラックスは、そのプレースタイルの他に、以下のような日本への影響がみられる。

オールホワイト

1919年(大正8年)、第三高校(京都大学の前身)と同志社のOBが中心となり、「オールホワイト」 こと関西ラグビー倶楽部(KRAC)を設立した[26][27]。現在の関西ラグビーフットボール協会の母体となる[27][28][29]

脚注

関連項目

外部リンク

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