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申尚澈

韓国の軍人 ウィキペディアから

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申 尚澈(シン・サンチョル、申尙澈、신상철1924年7月9日 - 2005年9月18日)は、大韓民国軍人外交官政治家創氏改名時の日本名永田達明本貫平山申氏朝鮮語版[1]カトリック教徒[2]

概要 申尚澈 신상철, 生誕 ...
概要 申 尚澈, 各種表記 ...
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経歴

1924年7月、忠清南道公州に生まれる。京畿高等学校卒業。1945年、陸軍航空士官学校58期卒業。同年7月1日、陸軍少尉任官[3]ソ連の侵攻に備えて戦闘機パイロットとして南満洲に駐在した[1]

1946年2月28日付で軍事英語学校を卒業して少尉に任官(軍番10058番)[4]。第2連隊の創設に参加。

1947年1月、第5連隊大隊長。2月1日、第5連隊副連隊長[5]。3月15日、首都旅団参謀長[6]

1948年6月18日、第8連隊長、任中領[7]

1948年8月8日、第3旅団参謀長[8]。11月3日、第15連隊長[9]。11月25日、軍紀司令部(憲兵)司令官[10][11]。同年の麗水・順天事件発生当時に事件処理を担当し、南朝鮮労働党系列の将校を粛清する粛軍作業にも参加した[1]

1949年10月、陸軍本部情報局長[12]

1950年1月15日、第6師団長[6]。6月10日、陸軍本部人事局長[12]。8月21日、第7師団長[5]。10月、白善燁第1師団と共に平壌を占領し市街行進を行った[1]

中国人民志願軍の攻勢で、第7師団が包囲されて全滅すると逃亡したため、軍法会議で死刑宣告を受けたが、1951年に空軍に転科して空軍本部作戦局長(大佐)となった[13]張志良によれば空軍の状況を把握できていなかった[13]

1951年、アメリカ空軍大学卒業。

1953年、第1訓練飛行団参謀長[5]。同年12月、空軍士官学校校長。

1959年、空軍本部参謀副長。

1960年、国防大学卒業。10月、任少将。

1961年、5・16軍事クーデター直後任国防部政訓局長[1]

1962年、軍事休戦委員代表。12月、予備役編入後に駐ベトナム大使。

1972年12月、逓信部長官。

1974年、駐スペイン大使。

1978年、第10代国会議員(全国区、維新政友会)。

1995年、自由民主連合に入党、同党顧問[1]

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勲章

出典

参考文献

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