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皇甫規
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皇甫 規(こうほ き、永元16年〈104年〉 - 熹平3年〈174年〉)は、後漢の武将・学者。字は威明。涼州安定郡朝那県の人。涼州三明の一人。文武に優れ、中国西北部における対羌戦争で戦功をあげるだけでなく、公平な統治を行い羌からも慕われた[1]。また儒学にも通じ[2]、数々の著作を残した。朝廷においては擅権する外戚や宦官と敵対したため、政治的に不利な立場に置かれた[3]。
生涯
要約
視点
出仕
涼州の著姓である安定皇甫氏の出身で、祖父の皇甫棱は度遼将軍、父の皇甫旗は扶風都尉を務めた[4]。
永和6年(141年)、西羌が三輔で反乱し安定を包囲した際、征西将軍の馬賢は諸郡の兵をもって攻撃したが勝てなかった。皇甫規は布衣(庶民)の身分ではあったが,馬賢が軍事を顧みないのを見て必ずうまくいかないだろうと判断し、上書してその意見を述べた[5]。果たして馬賢は羌との戦いで敗死した[6]。皇甫規に兵略があることを知った郡将は彼を功曹とし、甲士八百を率いさせて羌と交戦させると、斬首すること数級、羌の軍勢は退却した[4]。皇甫規は上計掾に挙げられた[7]。
後に羌が大挙して隴西を攻め、朝廷はこの状況を憂えていた。皇甫規は上疏して「羌戎が叛乱するに至っているのは、平安を受け入れないからではなく、みな辺境の将が綏御を失っていることによります」と述べ、現地の軍吏の堕落や、彼らによる戦果の粉飾・隠蔽、彼らの部下や羌が置かれている苦境を指摘した[8]。次いで安定・隴西の二郡の兵5000を借り、護羌校尉[注釈 1]の趙沖と共に作戦を遂行したいと申し出たが、用いられなかった[11]。
不遇をかこつ
梁冀の圧力
建康元年(144年)9月に順帝が崩御した後、沖帝・質帝の治世の間は梁太后が臨朝していた。順帝崩御の日には地震が発生し、後日、詔によって三公・特進・侯・卿・校尉が賢良方正を挙げた[12][13]。そこで推挙された皇甫規は策に答える際、順帝時代の政治的混乱を収めた外戚の梁氏を賞賛しながらも、姦臣の存在とその悪影響について指摘し[12]、以下のように述べた。「今、大将軍の梁冀・河南尹の梁不疑は周公旦・召公奭の任に携わって、社稷の鎮めに、加えて代々に王室の姻族ともなられ、今日では立号して尊しとされるのもふさわしいでしょう。しかし実際のところは謙譲・節義を修めていや増し、儒術をもって輔け、道楽や不急の務めを省き去り、邸宅や無益な装飾を削減すべきです。君主は舟、人民は水です。群臣は舟に乗り、将軍は操舵に務めます。心志を鎮めて力を尽くし、民を慮るならば、福と申せましょう。もし怠るならば、波濤に沈むこととなります。慎まないでよいでしょうか! 徳が禄に見合わないのは、穿たれた城壁の跡がその高さを増すがごときものです。どうして力を量り功を審らかにすることが安定した揺るぎなき道となりえましょうか。およそ宿猾(奸猾な人間)、酒徒(酒飲み)、戯客(娯楽に携わる側仕え)といった者どもは、みな邪なことばを耳に入れては、諂言を口に出し、逸遊に心を満たして、不義を唱道いたします。彼らを貶斥し、不法を懲らすのがよろしいでしょう。梁冀らに命じて、賢人を得る幸福と人材を失う憂患について深く考慮させるのです。地位のある身でありながら労もなく禄を食み、尚書は職務を怠り、官吏は曖昧な態度を取り、罪を問いただして明らかにすることを肯んじないからこそ、陛下には専ら阿諛追従の言を受け取らせ、門窓の外についてはお聞かせにならないのです。臣(わたくし)は誠に、おもねりやへつらいには福があり、深く入り込むような言葉は禍に近いことを存じてはおりますが、どうしてあえて心を隠し、誅責を避けることができましょうか! 臣は辺遠に育ち、紫庭(宮廷)へ入ることは稀であり、操守を失うことを恐れ、言は心を申し尽くすことができません」[14]。
梁冀は自分が批判されていると見て怒り、皇甫規を下第として郎中にした[7]。皇甫規は病と称して辞職し帰郷したが[注釈 2]、州郡は梁冀の思惑に従っていたため、命があやうくなることが度々あった[16]。『詩経』や『易経』を教えるうち、門徒は300人あまりになり、14年間続いた[17]。
復職
延熹2年(159年)、誅殺の対象となった梁冀が自殺し、梁氏一族は族誅となった[14][18]。皇甫規は旬月の間に五度招聘されたものの全て応じなかった[16]。皇甫規は張奐と親しい関係にあったが[19]、張奐が梁冀の故吏であったために免官されると、彼と交流していた人々もあえて話をしようとしない中で、皇甫規は張奐を推挙して七回にわたり上奏した[19][20]。時に泰山の叔孫無忌が郡県で叛乱を起こしており、中郎将の宗資が討伐するも未だ収まらずにいた。徴されて泰山太守を拝命した皇甫規は、叔孫無忌の反乱を鎮めた[19]。
梁氏一族の誅殺以来、宦官勢力が権力を擁するようになっていた[14]。延熹3年(160年)冬、河南尹の楊秉、および中常侍の単超のきょうだいであり済陰太守の単匡が収賄の罪により罷免されて左校に送られ、後に赦免された。皇甫規らは「楊秉は忠正であり、長きにわたって抑えこみ用いないでおくべきではありません」と上書し、楊秉を採用するよう要請した[14][21]。
涼州出征
延熹4年(161年)秋、零吾羌が叛乱して先零羌とともに関中に侵入した[22]。同年冬には上郡の沈氐、隴西の牢姐・烏吾などの諸羌があわせて并州・涼州に侵攻した[23][24]。護羌校尉の段熲がこれに対応したが、軍中の異民族兵が背いたことについて罪を着せられ、左校に送られた[25][26]。強勢の諸羌は陣営を陥落させ、諸郡を攻撃した[27][28]。当時59歳の皇甫規は上疏して出征を願い出たが、もとより羌の習俗や涼州の社会状況に通じている精通していることを述べた上で、「猛将を希求するよりも、公正な政をもって治めるほうがよい。呉起・孫武〔の兵書〕に明習するよりも、法に遵守する〔ことによって羌の叛乱を促さない〕ほうがよい」という対羌政策を主張した[22][29]。三公に推挙されて中郎将となった皇甫規は持節して関西[注釈 3]の兵を監督し、零吾などの羌に勝利して800の首級を得た[31]。諸羌のうち、皇甫規の威信を慕って降伏した者は10万あまりに及んだという[1]。
翌年の延熹5年(162年)、この降羌に由来する騎兵でもって皇甫規は隴右を討ったが、道路が遮断され、さらに軍中において疫病が蔓延し、兵の3、4割が死亡した[12]。皇甫規は自ら軍営に入って将士のもとを巡察したため、全軍が感悦したという[32]。東羌が使いを派遣して降伏を申し出たことで、涼州の交通は回復した[12]。
これより先、安定太守の孫雋は受賄しては狼藉とさせ[注釈 4]、属国都尉の李翕や督軍御史の張稟は降羌を多数殺害し、涼州刺史の郭閎や漢陽太守の趙熹は老衰で職務に堪えられなかった[35]。また、みな権勢をたのんで法に則らなかった[35]。延熹5年(162年)、州境に到着した皇甫規はそれぞれの罪をことごとく並べ立てて上奏し[36]、糾弾された官吏は罷免あるいは誅殺された[37]。このことを聞いた羌人は一丸となって恭順し、沈氐の大豪である滇昌・飢恬ら10万口あまりは皇甫規に降伏を願い出た[38]。
失脚から復帰へ
宦官との軋轢
皇甫規は出仕して数年で持節して将となり、軍衆を擁して戦功を打ち立て、故郷の監督をし、私情を挟まず、また多くの上奏を重ね、宦官を憎んで交流を持たなかった[33]。そのため内外で恨まれ、ついに「皇甫規は羌に賄賂をやり、文書でもって降伏させた(そのため真心がない[9][39])」と誣告された[33]。詔書を通じて桓帝から詰問された皇甫規は恐懼したものの、己の政策を正当なものだと主張し、それによって一億銭以上の節約に繋がったことを述べた上で、自らの功績と献身が中傷をもって報いられることに不満を表明し、「臣は汚穢であり廉潔は世に聞こえずとも、覆没を見る今、その恥と悲痛は実に深いものです。伝に曰く『鹿は死に瀕して庇蔭の場所を選ばない』とありますが[40][41]、僭越ながら謹んで大略を申し上げます」と上疏した[12]。
冬、皇甫規は徴されて議郎を拝命し[注釈 5]、彼に対する論功行賞が行われた[33]。中常侍の徐璜・左悺は賄賂を要求し、たびたび賓客を派遣して功績に関する報告書を求めたが、皇甫規は全く応じなかった[33]。怒った徐璜は皇甫規を失脚させるべく、かつて羌に賄賂を与え降伏させたという罪でもって獄吏のもとに下した[43]。皇甫規はその属官から贈賄および謝罪を請求されたが、誓って耳を傾けようとしなかったため、有罪とされて廷尉に繋がれ、左校に送られての労役となった[33]。諸公および太学生の張鳳ら300人あまりが闕(宮門[44])に詣でて訴訟したため、皇甫規は赦免されて帰宅した[43]。
ふたたび復職
皇甫規は徴されて度遼将軍を拝命したものの、数か月の後、中郎将の張奐を推薦し自らに代えるよう上書した[45]。朝廷はこれに従い、皇甫規は使匈奴中郎将となった[17]。後に張奐が大司農に遷った際には再び度遼将軍に就いた[12]。
皇甫規は心算を立てる人となりで、高位にありはしたものの仕官を辞して引退したいと考え、病気にかこつけてその旨を上表したが許されなかった。自身の友人で上郡太守の王旻が葬儀のため帰還する際、皇甫規は縞素[注釈 6]で越境し、下亭で出迎えた。そして賓客にこのことを并州刺史の胡芳へ密告させ、越権して軍営を離れたことは禁令に違反しているため急ぎ上奏すべきだと言わせた。これに対し胡芳は「威明(皇甫規)は帰郷して仕途を離れたいから私を刺激しただけだろう。私は朝廷のために才を愛するというのに、どうして彼のために図ろうというのか!」と言い、罪に問わなかった[12]。
党人との関係
党錮の禁に際して、多くの士大夫が渦中に巻き込まれた[42]。桓帝から霊帝までの間、彼らは外戚や宦官の専権に不満を抱き、清議と呼ばれる輿論を展開していた[47][48][49]。一方、彼らから「濁流」とみなされた宦官勢力は「徒党を組み、朝廷を誹謗して風俗を乱した」として士人たちを罪に問い、彼らを「党人」という蔑称で呼んだ[50][51][52]。皇甫規は名将とはいえ名声はもとより高くなく、認知されていなかった[53]。西州(涼州)の豪傑としてこのことを恥じて喜ばず[42]、皇甫規は上言した。「臣はかつて元大司農の張奐を薦めましたが、これは党に取り入る行いです。また臣がかつて左校に送られた際、太学生の張鳳らが上書して訴訟いたしましたが、これは党人が臣に取り入ったものであります。臣は罪を問われるべきです」[54]。朝廷は不問としたが[12][注釈 7]、人々は皇甫規のことを賢明であると称えた[5]。また、北方の辺境は数年で皇甫規に畏服したという[55]。
永康元年(167年)、皇甫規は徴されて尚書となった。夏に日食があったため、桓帝は詔を下して公卿に賢良方正を挙げさせ、得失について下問した。皇甫規はそれに答えて、陳蕃、劉矩・劉祐、馮緄・趙典・尹勳、李膺・王暢・孔翊[注釈 8]の不遇について言及した。そして李膺らが被害を蒙った党錮の禁について触れ、謂れなき罪から生じた事が賢者や善人を虐げ、無辜の人間すら巻き込んだこと、また今では状況に改善の兆しがあるにもかかわらず、群臣は口を閉ざしてかつてのような迫害を恐れ、互いに謹慎し正言しようとしないことを述べて、桓帝の施策に対する厳しい批判を行った[55]。しかし皇甫規の上奏は注意を払われなかった[55]。
死去
皇甫規は弘農太守に遷り、寿成亭侯に封じられて食邑が二百戸となったが、封侯・封土は全て辞退した[55]。この頃、故郷の漢陽に戻る途上にいた趙壱が弘農を通過しようとしたが、門番が通そうとしなかったのでその場を去った[17]。門番がこのことを報告すると、趙壱の名声を知っていた皇甫規は大いに驚いて、主簿を遣って彼に謝罪の書状を送り、引き返すよう願い出た。趙壱は皇甫規に対する尊敬の念を示しつつも、申し出を断った[57][58][注釈 9]。
後に皇甫規は再び護羌校尉に転じたが[55]、熹平3年(174年)、病を患って召還され、途上の穀城において71歳で死去した[55]。賦、銘文、碑文、讃、祈祷文、弔文、上表文、教令(令文)、檄文、牋記[注釈 10]などあわせて27篇の著作があった[63][64]。
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逸話
皇甫規が度遼将軍の職を解かれて帰郷した時、同郷かつ買官により雁門太守になった人物もまた離職して里帰りをしており、名刺を書いて皇甫規に面会を求めた[17]。皇甫規は床に臥したまま出迎えず、しかしその人物は門から入ってきたので、「卿(きみ)がかつて郡でめしあがった鴈(雁)は美味でしたか」と尋ねた[17]。しばらくの後、王符が門の前に姿を見せると、もとより王符の名を聞き知っていた皇甫規は驚き慌て、帯もつけずに草履を履いて出迎えた[17]。さらに王符の手を取って案内し、同席して歓待した[17]。これについて人々はこう語った。「いたずらに二千石と会うことは、一着の縫掖[注釈 11]に及ばない」[17][67]。
皇甫規の妻
皇甫規の妻は、皇甫規の嫡妻が死んだあとに彼のもとへ嫁いだ[注釈 12]。文才があり、草書がうまく、皇甫規のために代筆することもあったが、人々はその達筆に驚いたという。皇甫規が死去したとき、その妻はなお若く、容貌もうるわしかった。相国となった董卓はそのことを耳にすると、彼女を娶ろうと考え、輜軿[注釈 13]100乗に加えて馬を20匹、さらに奴婢や銭帛も用意したが、それらの贈り物で道が塞がるほどであったという。皇甫規の妻は軽装で董卓のもとへ赴くと、跪いて陳情し、辞退した。董卓は、お付きの従者に抜刀した状態で彼女を取り囲ませ、「孤(わたし)の威教は四海(天下)を靡かせるものだというのに、どうして婦人ひとりに対して通じないことがあろうか!」と言った。逃れられないと悟った皇甫規の妻は、董卓に対し「君は羌胡の生まれでありながら、天下に害毒を流してなおも足りないのか! 妾(わたくし)の先祖は代々にわたり高潔な徳をもって知られ、皇甫氏は文武の才を備えた漢の忠臣です。君の親はそれに使役される使い走りではなかったか? だのに主君の夫人に非礼を働こうというのか!」と罵った。董卓は車を庭に引き入れると、彼女の頭をくびきに繋ぎ、鞭や杖で何度も殴打した。皇甫規の妻は、杖を持っていた者に対して「どうしてもっと強く殴らないのか? 早く死なせてもらえるとありがたい」と言い、ついに車のもとで死んだ。人々は後に絵を描き、皇甫規の妻のことを「礼宗」と呼んだ[71][72]。
脚注
参考文献
関連項目
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