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皇輿全覧図
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『皇輿全覧図』(こうよぜんらんず)は、中国清代の康熙57年(1718年)イエズス会士のブーヴェらが康熙帝に献上した、中国全土の地図[1]。中国最初の実測図[1][2]。『康熙図』などともいう[3]。

背景・内容
明代末期・万暦30年(1602年)のマテオ・リッチ『坤輿万国全図』をはじめ、イエズス会士は中国に最新の世界地図を伝えていた[3]。
清代の康熙46年(1707年)[4]、康熙帝がイエズス会士のブーヴェ、レジス、ジャルトゥーらに中国地図の製作を命じた。背景として、1689年のネルチンスク条約[5]などを踏まえた国防上の必要性[6]、康熙帝の西洋数学への関心[5][7]、フランス王立アカデミーにおける中国研究の高まり[5][6]などがあった。
以降、1708年から1717年の10年間にわたり、イエズス会士と中国人により測量旅行と製図が行われた[7]。地図学の手法として、中国伝統の方格図法に代わり[1]、三角測量・梯形投影法・経緯線などが使われた[8][1][5]。レジスの測量隊は沿海地方やチベットの先駆的調査をした[9][4]。チョモランマ(エベレスト)の標高測定も行われた[4]。マッテオ・リパは銅版製作を命じられた[10]。
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影響
本作は後世の中国地図の多くに影響を与え[6]、後継作の『雍正十排図』『乾隆十三排図』[11][4]、『古今図書集成』『大清一統志』所収の地図などに利用された[12]。ヨーロッパ諸国にも版本や調査報告が伝わり[13]、特にフランスのダンヴィルの中国地図(デュアルド『中国誌』所収)に利用された[6][11]。
江戸時代の日本にも『古今図書集成』などを介して伝わり、木村蒹葭堂・山田聯(山田慥斎)・高橋景保・馬場貞由・近藤重蔵らに受容された[6]。北方探検で未踏だったサハリン北部の資料としても利用された[6]。
伝本・研究
伝本は長らく失われていたが、20世紀に複数再発見された。1929年、瀋陽故宮から再発見されると、金梁・翁文灝・フックス・黒田源次らが研究を開拓した[15]。以降、中国内外に伝本が確認されている[15][8][10]。伝本は木版分域図と銅版連接図の二種に大別される[16]。
関連項目
脚注
参考文献
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