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相原可碩

江戸時代の囲碁棋士 ウィキペディアから

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相原 可碩(あいはら かせき、元禄11年(1698年) - 安永5年(1776年))は、江戸時代囲碁棋士伊予国生まれ、四世井上道節因碩門下、七段。琉球碁士との対戦がある他、本因坊知伯本因坊秀伯本因坊伯元の時代に碁界を支えたとも言われる。

経歴

幼時から井上道節因碩門下となる。12歳の時に徳川家宣に召し出され、切米150俵を賜って、御家人として三田に邸宅を拝領した。宝永7年(1710年)13歳三段の時、琉球国中山王の貢使随員で屋良里之子本因坊道知と島津邸にて対局した際に、島津家茶人児玉可俊と対局して向先で勝。次いで屋良が道知との再戦を申し入れると、因碩は道知病気と称して可碩を屋良と対戦させ、屋良先番で可碩2目勝となった[1]

享保5年(1720年)に道知が碁所就位を各家に打診した際には、家元間の使者役を務めた。享保20年(1735年)、井上春碩因碩とともに七段に進む。本因坊知伯と4局、秀伯と9局、伯元と6局などの棋譜が残されている。また大斜定石の棋譜として最も古いものを遺している。宝暦13年(1763年)66歳で坂口仙徳との棋譜がある。

安永5年(1776年)、79歳でこの世を去る。 尚、墓碑は東京の青山霊園の相原家の墓地敷地内にある。

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有名局

1739(元文4)年、安井仙角と対した一局は、一線ハイ9本という珍形が現れた碁として知られる[2]

形勢不利と見た黒の仙角が、黒1から3と動き出す。白は攻め合い勝ちの形に持ち込むが、黒は11から一線とずるずると這って、右上の黒石に連絡した。この隅に一眼あるために黒は生きとなり、右下の白9子を取り込むことに成功したが、代償として右辺にあった黒地が消滅した。さらに可碩は白28から30と打って右上の黒▲の石を取り込んで優勢を保ち、最終的に11目の勝ちを収めている。

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参考文献

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