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石尾治一
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石尾 治一(いしお はるかず)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。旗本。
生涯
弘治3年(1557年)、荒木村重の一族である荒木元清の三男として生まれた[4]。
村重の乱で一族の大半は亡くなるが、天正8年(1580年)、摂津花隈城は開城して降伏したので、父・元清、治一、弟・元満は、難を逃れた。(後に)豊臣秀吉に仕えた[5]。
時期はわからないが、治一は荒木姓から石尾姓に改める[5]。
文禄元年(1592年)、肥前名護屋城に駐屯[4]。『松浦古事記』によれば、三ノ丸御番衆の御馬廻組で、五番中井組(中井平右衛門)に属した。
文禄3年(1594年)、伏見城普請の奉行。『甫庵太閤記』によれば、普請奉行六人[6]の一人に選ばれていたという[7]。
慶長3年(1598年)に子の十兵衛を使者として徳川秀忠に挨拶状を送り、返事をもらった[5]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して失領し[4]、黒田長政に身柄を預けられたが、慶長8年(1603年)に赦免を受けて京都に住んだ[5]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、招かれて有馬豊氏の軍勢に加わった[5]。
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脚注
参考文献
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