トップQs
タイムライン
チャット
視点

石橋和義

鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。源姓足利氏一門斯波氏庶流御一家石橋氏の家祖・初代。従四位下、左近将監、三河守、左衛門佐。室町幕府 引付頭人 ウィキペディアから

Remove ads

石橋 和義(いしばし かずよし / まさよし[1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代武将吉田義博の子[2]石橋氏初代当主。足利直義派の宿将と言われるが、観応の擾乱初期から尊氏派としての旗幟を鮮明にしている。

概要 凡例石橋 和義, 時代 ...

足利尊氏、直義、斯波高経とは同年代にあたる[3]

生涯

多々良浜の戦いが起きた1336年山陽山陰の国人らに軍勢催促状を発し、足利尊氏西走の際に備前国三石城にて、城主として新田勢の猛攻をしのぎ、尊氏の西下・東上を助けた。播磨国白旗城に籠城した赤松則村(円心)と共に、尊氏の捲土重来を支えた最大の功労者と言える。

建武4年(1337年)正月から同5年正月頃まで、「南都大将」として、奈良の警固にあたっている[4]。同年3月〜4月頃、伯耆国守護を務めた[4]

1338年若狭国守護斯波時家の加勢のため赴き、この頃に左衛門佐に任官された。1339年から1年余り備後国守護として赴任。暦応4年(1341年)から室町幕府引付頭人に就任。康永元年(1342年)から官途奉行を務めた[5]。同職は直義が管轄しており、直義との関係がうかがえる[5]1345年正五位下、1351年従四位下。

観応元年(1350年)、尊氏らは、足利直冬を討つため備前国福岡に到るが、直義挙兵の報を聞き、和義を残して帰京した[6]。翌2年(1351年)4月、和義も帰京した[6]。その後、尊氏・直義の和睦を経て、両者が再び決裂する中、7月29日、突然出家し、「入道心勝」と称した[6]

観応3年(1352年)、直義死去。同年、直冬や南朝方の山名氏が備前国鳥取庄などに侵攻すると、和義は「大将」「武家方大将軍」として出撃した[7]

1352年から1357年まで再び引付頭人を勤め、尊氏が鎌倉に在した時は足利義詮を補佐し、幕府の宿老として評定衆筆頭にまで昇りつめた。

尊氏死後

延文3年(1358年)4月、尊氏死去。同年6月、尊氏への贈位贈官につき、義詮の代理として参内。通常、足利一門は天皇に拝謁できないため、洞院公賢は「一族として参上御対面は常儀にあらず」と評した(『園太暦』)[8][9]

康安元年(1361年)10月、若狭国守護に就任[9]。その後、同族の斯波高経と対立。貞治2年(1363年)8月、若狭守護を解任され(後任は高経)、幕閣の中枢からも外れた[10]

しかし高経失脚と共に復権。1370年から子の棟義を援けるため、奥羽に赴き、永徳元年(1381年)頃まで在国の痕跡を残す[10]。和義は80歳前後まで存命だったようである[11]

Remove ads

和歌

和義は歌人でもあった[12]

聞くだにも、あや(危)ふき淵の薄氷、臨むに似たる、世を渡る哉

その後の石橋氏

陸奥国塩松に土着した一派(奥州石橋氏)と、帰京した一派(京都石橋氏)に分かれた[11][10]

名字について

谷口雄太によると、石橋氏が「足利」を名乗るのは、1340年代が最後で、他の御三家である吉良氏渋川氏と同時期であるという[13]。その後、名字不記入の「尾張」(尾張左衛門佐)を経て、1360年代には「石橋」が広く用いられる[13]

「石橋、(足利)泰氏の嫡流、五世孫和義より石橋と号す」(『見聞諸家紋』)[1]

脚注

参考文献

関連文献

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads