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石田友汀
日本の浮世絵師 (1756-1815) ウィキペディアから
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石田 友汀(いしだ ゆうてい、宝暦6年(1756年 - 文化12年10月6日(1815年11月6日))は、日本の江戸時代中期から後期に活動した鶴澤派(狩野派の一派)の絵師。
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略伝
京都出身。かつては石田家菩提寺・休務寺に残る過去帳から、石田幽汀の次男とされた。しかしその後の研究により、元は栢半兵衛という名前の幽汀門人で、社像などに彩色を家業とする町人の子だという[1]。ところが寛政5年(1793年)、幽汀の跡を継いだ石田遊汀が30歳で早世すると急遽養子入りして跡を継ぎ、翌年正月絵師とならなかった幽汀長男・勘助から岩上通松浦町(現在の四条堀川交差点近く)の幽汀宅を譲られた[2]。幽汀次男との誤認は、過去帳に養子入りの記載が欠けていたことによる。後に法橋となり禁裏御用絵師の1人として活躍、また他の町絵師とともに『東海道名所図会』などの名所図会などの版本挿絵も担当している。『平安人物志』文化10年(1813年)版では30番目に掲載され、不明門雪駄屋町(現在の京都市営地下鉄五条駅近く)在住とある。跡は養子の石田悠汀が継ぎ、栢家は石田悠汀門人という友篤が継いでいる。画風に先進性はないものの、画技自体は高く堅実な狩野派風を守っている。
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作品
脚注
参考文献
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