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石田為久

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石田為久
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石田 為久(いしだ ためひさ)は、平安時代末期の武将。三浦義明の従孫、蘆名為清の孫(『三浦系図』)。

概要 凡例石田為久, 時代 ...

相模国大住郡糟屋庄石田郷(現在の神奈川県伊勢原市石田[2])の住人となり、相模石田氏の祖となる。

概要

治承・寿永の乱において鎌倉方として、源範頼源義経兄弟による木曾義仲討伐軍に従軍した。

寿永3年(1184年)正月21日、義仲が粟津の戦いで敗北し、北国へ落ち延びる道中、馬が粟津の松原で深田にはまり込んで動けなくなったところを、矢を放って義仲のの内側を射抜いた。義仲が倒れたところを為久の郎党2人が駆けつけ、その首を取った(『平家物語』木曾最期、『吾妻鏡』(元暦元年正月20日条))[3]

為久はその功績で、源頼朝より伊豆国3千町、あるいは近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)の所領を与えられたという。安土桃山時代石田三成はその後裔と称している。

江戸後期の木邨梅年(木村忠貞)の著作『鎌倉武監』に拠れば、石田三成が使用したことで著名な旗指物の紋「大一大万大吉」は、元々は石田為久が使用していたとされる。

画像集

脚注

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