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石頭希遷
中国唐代の禅僧 ウィキペディアから
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石頭希遷(せきとう きせん)は、中国・唐代の禅僧。諡は無際大師。俗姓は陳。端州高要県の出身。慧能の弟子である青原行思の弟子であり、その一派を石頭宗と呼んでいる。
略歴
初めは六祖慧能に師事していたが、その遷化にあい、吉州の青原行思のもとへ移り、法嗣となった。
742年(天宝元年)[注釈 1]、南嶽衡山の南台寺に移り、その東側にあった石上に庵を編んだため、「石頭」と称されるようになった。門弟子は多かったが、当初、さほど目立った存在ではなかったようである。圭峰宗密は、牛頭宗の一派と見誤っている(『禅源諸詮集都序』)[3]。
門下には、薬山惟儼や天皇道悟、丹霞天然らの著名な禅匠が見られ、馬祖道一の洪州宗と勢力を競うまでになった。ただ、天皇道悟や丹霞天然は、石頭だけではなく、馬祖のもとでも修禅に励んでおり、逆に馬祖の弟子となる五洩霊黙が石頭のもとに居たように、両派の門下の往来が頻繁であったことを窺うことができる。
肉身仏
横浜市にある曹洞宗大本山總持寺には、石頭のものとされる肉身仏(ミイラ)が安置されている(非公開)。
元々中国の湖南の寺院に祀られていたが、辛亥革命の際に寺院が兵火を受けたため、日本人が保護して日本に持ち込んだと伝わる[4]。1914年(大正3年)の大正博覧会に出展され、その際の写真が現存する[5]。その後青梅市に安置されていたが、日本ミイラ研究グループの手に渡り、さらに1975年(昭和50年)から總持寺で祀られることとなった[6]。
『宋高僧伝』には、石頭希遷をミイラにしたとは書かれていない[7]。また、『南嶽総勝集』中巻には、楚寧寺は石頭希遷の遺骨の埋葬地とする記述がある[8]。さらに、『東京大正博覧会事務報告』には、博覧会に出展されたミイラは、達磨大師の第2高弟で、江西省汗洲府竜泉寺に祀られていたものとの説明がされている[9]。これについて安藤更生は、返還要求を受けないためのデタラメと推測している[10]。しかし、このミイラが石頭希遷なのか否かは確かめようがない[7]。
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著作
石頭希遷の著作として、2編の偈頌が伝わる。
『参同契』は、修行の心得を説いたもので、日本の曹洞宗の寺院では朝課(毎朝のお勤め)や法要において読誦されている[11]。
『草庵歌』は、 この世の喧騒から離れた、草ぶきの小さな庵で一人静かに暮らす心境が、禅において必要とされる心の有り様に通ずることを教示する[12]。
伝記
- 石井修道『石頭 自己完結を拒否しつづけた禅者』臨川書店〈唐代の禅僧3〉、2013年1月。ISBN 978-4-653-03993-8。
参考文献
- 『宋高僧伝』巻9「唐南岳石頭山希遷伝」
- 『景徳伝灯録』第14巻「石頭希遷大師」
- 安藤更生『日本のミイラ』毎日新聞社、1961年7月25日、213-222頁。
- 日本ミイラ研究グループ 編『日本ミイラの研究』平凡社、1969年8月7日、143-148頁。
- 新装版: 1993年5月1日。ISBN 4-582-42001-X
- 松本, 昭『日本のミイラ仏』臨川書店〈臨川選書〉、1993年10月30日。ISBN 4-653-02582-7。
- 増補版: 2002年9月30日。ISBN 4-653-03805-8
- 鎌田茂雄『中国の禅』講談社〈講談社学術文庫〉、1980年8月10日、107-112頁。
脚注
関連項目
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