トップQs
タイムライン
チャット
視点

破墨山水図

雪舟の水墨画 ウィキペディアから

破墨山水図
Remove ads

破墨山水図」(はぼくさんすいず)は、雪舟室町時代明応4年(1495年)に描いた水墨画であり、山水画である。単に「山水図」とも[1][2]。紙本墨画[3]、大きさは縦147.9センチメートル、横32.7センチメートル[4]東京国立博物館蔵。

Thumb
破墨山水図(部分)

制作と伝来

雪舟76歳のとき、雪舟のもとで画を学んでいた鎌倉円覚寺蔵主の如水宗淵が修業を終えて東国へ帰るにあたり、乞われて描いたものである。長文の自賛のなかでは宗淵を「勉励最も深し」と賞賛している[5]。宗淵は東帰の途上、京において6名の禅僧に賛を求めた[6][7]

本作は宗淵によって鎌倉にもたらされ、寛文11年(1671年)の『弁玉集』は鎌倉に所在すると記しているが、元禄9年(1696年)には京都の臨済宗相国寺に移っていることが『図書考略記』によって知られる[8]文政13年(1830年)に塔頭・慈照院に移り、廃仏棄釈のおりに他所へ渡ってから[9]、1905年(明治38年)12月に帝室博物館(現・東京国立博物館)所蔵となった[10]

1952年(昭和27年)に国宝に指定された。この際の登録名称は単に「山水図」とされたが、学界で「破墨」「潑墨」の両説が論争されている問題(#技法と呼称を参照)を避けるためであったと目される[1]

Remove ads

内容

要約
視点
Thumb
破墨山水図(全部)

画は玉澗風の手法で、屹立する崖の近景を濃墨で点じ、背後にそそり立つ遠山を淡墨で描いている[11]

赤沢英二は、通常の雪舟の山水図のような、下縁に濃墨の岩石などを配置して距離感を演出する手法や、「秋冬山水図」のような岩石の構築性は、本作には見られないと指摘している[11]島尾新も、本作は「他のものと比べて瀟洒ともいえる柔らかさ」で、雪舟特有の荒っぽさが見られないと解説している[7]

以上のように従来の雪舟の画風と異なる点が注目される一方、海老根聰郎はやはり軽い調子や簡疎な構成を認めつつ、形象が空間に融解して広がりをもつ玉澗の作風に対し、本作の「形象は孤立的で余白に対立する」という特徴を指摘し、雪舟の独自性を見いだしている[12]

相陽ノ宗淵蔵主、余ニ従ツテ画ヲ学ブコト年有リ、筆已ニ典刑有リ、意ヲ兹芸ニ遊ハシテ勉励尤モ深キナリ、今春帰ヲ告ゲテ謂ヒテ曰ク、願クハ翁ノ一図ヲ獲テ以テ我家ノ箕裘青氈ト為サント欲ス、数日余ニ於テ之ヲ責ム、余ノ眼ハ昏、心ハ耄ニシテ、製スル所以ヲ知ラズト雖モ、其ノ志ニ逼ラレテ、輙チ禿筆ヲ拈リテ淡墨ヲ洒ギ、之ニ与ヘテ曰ク、余曽テ大宋国ニ入リ、北ハ大江ヲ渉リテ斉魯ノ郊ヲ経テ、洛ニ至リテ画師ヲ求ム、然ルト雖モ揮染清抜ノ者稀ナリ、茲ニ於ヒテ長有声并李在二人時名ヲ得タリ、相随ツテ設色ノ旨ト、兼テ破墨之法ヲ伝フ、数年ニシテ本邦ニ帰ルヤ、吾祖如拙周文両翁ヲ熟知スルニ、製作楷模ニシテ、皆一ニ前輩ノ作ヲ承ケテ、敢テ増捐セザルナリ、支矮ノ間ヲ歴覧スルニ、弥両翁ノ心識ノ高妙ナルヲ仰スルモノカ、子ノ求ニ応ヘテ、嘲ヲ顧ミズ書ス、
 明応乙卯季春中澣 日
 四明天童第一座老境七十六翁雪舟書
雪舟自賛(原文を書き下し)[3][13]

賛は雪舟の自序と、京の禅僧6名(月翁周鏡蘭坡景茝天隠龍沢正宗龍統了庵桂悟景徐周麟)による詩である[4]。6僧の賛は画および自賛とは別紙である[14]

室町時代の画家みずからの言葉は珍しく、この自賛の存在は本作を著名にした[4]。自賛は本作を描いた経緯を記したあと、明代の中国を訪ねた際を回想して「自分は『大宋国』に入って絵師を探したが、技術のすぐれた者は稀であった。そのなかで名声を得ていた長有声李在中国語版に師事し、彩色と破墨の技法を学んだ。日本へ帰ってみると、『吾祖』である如拙周文の画業の偉大さに感じ入った」と述べている[15]。長有声なる絵師については伝わっていないが、李在は宣徳年間(1426年 - 1635年)の山水画家としてその存在が知られている[16]

矢代幸雄はこの賛の内容から、雪舟の中国の自然景観への感激と、それと対照的な明の画壇への失望を読み取っている[17]。しかしその失望は軽薄で傲慢なものではなく、深い見識に裏打ちされたものであり[18]、日本と明の間の画風潮流のズレに由来するものであったと推測している[19]

Remove ads

技法と呼称

本作を「破墨山水」と称する例については、古くは元禄9年序文(1696年)の『図書考略記』に、雪舟による自賛の全文を引用して「是号破墨山水」とある[8]

衛藤駿の解説によると、破墨は、淡墨で絵の要所を描いたのち、それが乾かないうちに濃墨を点ずる技法であり、元代の玉澗による潑墨の技法にあたる[20]滝精一は、破墨と潑墨とは相対する技法ではないとした[21]田中豊蔵は、破墨は「水墨」と同義であり、潑墨はそれに包摂される概念であるから、本作を「破墨山水」と称するのは誤りではないが、むしろ潑墨と称したほうが厳密であるとしたが[22]、約30年後の続稿で、雪舟自身は本作を破墨のつもりで描いたのではないかとする考えに転じている[23]

これに対して、本作の技法はあくまで破墨ではなく潑墨と称するべきであるとする説が、鵜飼壬子郎[24]中村渓男[2][10][25]によって唱えられている。鵜飼は、破墨の法は描く物体の輪郭をある程度明瞭にするのに対し、潑墨の法は物体と周囲の大気が溶けあう表現を図るものであるとしたうえで、本作を後者に措定した[24]。中村は田中豊蔵論文[22]における主張を踏襲しつつ、破墨は通常の水墨の正道的な方法であるのに対し、潑墨は振りまきちらした墨を引っ掻いたり掃いたりして闊達に描く権道的なもので、賛のなかの表現をみても後者の方法を用いている観を深くすると主張した[10]田中一松は、画法における楷・行・草の3つの様式のうち、草体の山水を潑墨山水としている[26]。そして田中は、中国の芸術研究家のあいだで、淡墨のなかに濃墨を落として滲ませるような技法は破墨ではなく潑墨にあたるという認識が一般的であるとみとめ、本作は潑墨山水図と称するべきであるとしている[27]

下店静市は鵜飼への反論のなかで、潑墨とは墨がこぼれ散ったように描く技法で、筆あとがないものであると主張し、本作には筆の痕跡が明白であるから破墨とするべきであると述べた[28]。矢代幸雄は、自賛に中国で「破墨」を学んだ旨が記されていることから、本作がその実践であると推定している。そのうえで、本作における自由な墨の用法や、賛には雪舟の詩友による「破墨」の語がみえることも踏まえると、雪舟自身も本作を破墨の作例と受け取られることに異議はなかったと考えられ、「破墨山水」と称して差し支えないと主張している[29]。鵜飼や田中豊蔵は、自賛にみえる「破墨」の語は本作の技法が破墨であると証するものではないとしている[30][31]

評価

田中一松は、潑墨の技法における墨の散らし方が激しい玉澗に対して、雪舟は墨の濃淡をより巧みに扱って靄のかかった景色をよく表現しているとし、日本の潑墨山水は雪舟において特異な境地に達したと評している[32]

雪舟が本作に玉澗流の潑墨体を選んだことについて、赤沢英二は老境の雪舟が師・周文の心識を表現しようとするにあたり、その直模的な手法をこえてたどり着いた境地であると評している[11]。その一方で、結局は周文の影響を受けた典型様式の展開であり、周文の「呪縛的な要素」からは抜け出せなかったとしている[11]

島尾新は本作の目的について、宗淵に託して京の著名な禅僧たちに詩を寄せてもらうことで、京における権威を獲得して存在感を高めることにあったとしている。自賛には、中国と日本の各地を歴訪したことへの自負と、周文に連なる自らの画系の主張がみられると指摘している[7]。本作のタッチが雪舟らしい荒々しさをもっていないのは、上の目的に沿って周文らしい都風のタッチを採用したためであるとする[7]

Remove ads

脚注

参考文献

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads