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碇穹一

日本のカーデザイナー ウィキペディアから

碇穹一
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碇 穹一(いかり きゅういち、1944年[1] - 2016年11月20日[2])は、日本カーデザイナー。富士重工業(現・SUBARU)のデザイナーとして、スバル・アルシオーネのデザインを手がけた人物として知られる[3][4]

概要 いかり きゅういち 碇 穹一, 生誕 ...

生涯

1944年(昭和19年)、千葉県に生まれる[1]。幼少期を八日市場(現・匝瑳市)で過ごし、旭市映画館を経営していた叔父の影響で自動車に関心を持つ[5]中学生のとき自動車の設計士を志し[6]千葉県立匝瑳高等学校を卒業後、御茶の水美術学院での浪人生活を経て[7]スバル・360のデザイナー・佐々木達三が教鞭を振るっていた武蔵野美術大学に進学した[8]大学では造形学部工芸工業デザイン学科を専攻し、1969年(昭和44年)に卒業。富士重工業に入社し、スバル技術本部デザイン課に配属[1]群馬県太田市社員寮へと入寮する[9]。初の愛車はスバル・ff-1であった[10]。1973年(昭和48年)、先輩社員であった矢古宇宏の紹介で知り合った女性と結婚仲人は佐々木達三が務めた[11]。在職中、アメリカ合衆国アートセンター・カレッジ・オブ・デザイン留学(1980年 - )、ヨーロッパ駐在(1990年 - )、しげる工業への出向(2000年 - )を経験。2004年(平成16年)、スバルカスタマイズ工房へと移籍し、2005年(平成17年)に退職[1]。晩年は書籍の執筆や[12]郷土史雑誌への寄稿[13]自動車ファンとの交流[3]、母校である匝瑳高校の同窓会東京支部「匝東会」役員(副会長)を務めるなどして過ごし[14]、2016年(平成28年)11月20日、群馬県太田市で死去した[2]

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スバルカスタマイズ工房が手がけたブリッツェン(画像は碇の退職後に発売された2006年モデル)
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実績

スバル・レックス初代550cc)
軽自動車エンジン排気量550cc化に伴い、後部のガラスハッチ周りをデザイン[15]
スバル・サンバー3代目550cc)
同じく550cc化に伴い、大型のフロントグリルやハイルーフの形状をまとめる[15]
スバル・アルシオーネ
加藤登[注 1]のもと、杉本清や加藤秀文らとともに1/4スケールモデルを製作し、ほぼそのままの外観形状でフルスケール化。スバル・オブ・アメリカから提示されたマルチェロ・ガンディーニによる作品「アスコット」とイメージを共通するものとなっている。内装についてもステアリング・ホイール周りの特徴的なスイッチ類、攻撃ヘリコプター操縦桿をモチーフとしたシフトレバーなど、ハイテク感満載のデザインに仕上げた[4][17]
スバル・サンバー(5代目クラシック)
当初、猿川洋史が手がけていたサンバークラシック企画を継承[18]
スバル・ヴィヴィオ(年次改良)
フェイスリフトを手がけるも難航。デビュー当初のデザインには及ばず[19]
スバル・インプレッサ初代
開発初期にインテリアデザインに着手して間もなくヨーロッパ駐在が決定。後任へと引き継がれた[20]
スバル・ジャスティ初代コンバーチブル企画)
ヨーロッパでジャスティの延命を意図して企画するも実現せず[21]
リッターカークラスのコンパクトカー企画
女性向けの小型車として、軽快でスポーティなハッチバック車をデザインするも、社外からのエンジン調達にめどが立たず、企画自体が頓挫[22]
スバル・レガシィ ブリッツェン 2005年モデル
スバルカスタマイズ工房移籍後、本モデルのプロデューサーを務める[23]。4代目レガシィB4 2.0GTをベースとする本モデルは、ブリッツェンとしては3世代目となる。初代から受け継いだワイルドさ、2代目から受け継いだエレガントさに加え、都会的なイメージ「カジュアルアクセント」の3つを骨子として[24]、ヨーロッパのデザイナーとの共同開発にあたった。本モデルの発売後、間もなく定年退職を迎えている[25]
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その他

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マングスタ(左)とジュリアSS(右)

脚注

参考文献

関連項目

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