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神よ、皇帝フランツを守り給え
神聖ローマ帝国、オーストリア帝国の国歌 ウィキペディアから
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『神よ、皇帝フランツを守り給え』(かみよ、こうていフランツをまもりたまえ、ドイツ語: Gott erhalte Franz den Kaiser)あるいは『オーストリア皇帝讃歌』(オーストリアこうていさんか、ドイツ語: Österreichische Kaiserhymne)は、神聖ローマ帝国、オーストリア帝国(のちオーストリア=ハンガリー帝国)の国歌。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの作曲による。ハイドンによるメロディーはその後、数多くの讃美歌やクラシック音楽の中で用いられ、またドイツの国歌『ドイツの歌』として転用されている。
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作曲に至る過程
作曲の経緯には、2つの説がある。いずれにせよ、イングランドの『神よ国王を護り賜え』の影響を強く受けて成立したことは確実である[1]。
第1の説


- フランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ伯爵が作曲全体のイニシアティブをとったとする説。ゾーラウ伯爵の1820年2月28日付の書状の内容に基づく[1]。
フランス革命戦争の最中である1796年の終わり、神聖ローマ帝国(オーストリア)はナポレオン軍に脅かされるなど政治的に不安定な情勢下にあった。そのため皇帝のもとでの国民の団結が強く求められていたが、時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は優柔不断かつ悲観的な性格で、それほど国民に愛されてはいなかった[2]。
そこでニーダーエスターライヒ州政府長官のフランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ伯爵は、国民の団結を促す契機となるものを作らんと、詩人のローレンツ・レオポルト・ハシュカに、イングランドの『神よ国王を護り賜え』を手本として、翌年の皇帝の誕生日(=1797年2月12日)に演奏する歌の歌詞を書くように依頼した[2]。1796年10月11日、ハシュカは完成した歌詞を、ゾーラウ伯爵に送った[2]。
ゾーラウ伯爵から作曲を依頼されたハイドンも、1791年から92年、また1794年から95年にかけてロンドンに赴いた時に『神よ国王を護り賜え』を耳にしており、それを大いに意識して作曲を行った[3]。(ハイドンの英国訪問については「ロンドン交響曲」も参照)
第2の説
- ウィーンの宮廷図書館に勤めていたアントン・フランツ・シュミットという人物の記した書物に基づく[1]。
『神よ国王を護り賜え』を聴いたハイドンが、ウィーンの音楽愛好家であるゴットフリート・ヴァン・スウィーテン男爵に、オーストリアにも同様の国歌があればと述べた[1]。スウィーテンがゾーラウ伯爵にこれを伝え、ゾーラウ伯爵がハシュカに作詞を依頼した[1]。
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作曲

オーケストラ譜には、ハイドン自身の手で「Volck's Lied」という注記があり、その意味は「国民の歌」とも「民謡」ともとれる[1]。これに関連し、作曲時にハイドンが参考にした可能性がある民謡がある。クロアチア民謡「悲しき花嫁(Zalostna zarucnice)」で、冒頭部分の音符とリズムの輪郭が完全に一致する[1]。H.C.ロビンス・ランドンは、ハイドンが1761年以降仕えていたエステルハージ家の居城があったエステルハーザ付近でこの民謡が歌われていたと指摘している[4]。
カトリックの『ローマ・ミサ典礼書』に含まれる《天にましますわれらの父よ》とも、冒頭の旋律に含まれる音が一致するなど、類似が指摘されている[4]。
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初演
1797年1月28日にゾーラウ伯爵がハイドンの浄書譜に出版を許可しているため、それまでには作曲が完了していたと考えられる[3]。印刷は大急ぎで行われ、1月30日には初版の印刷が完了したらしい[3]。そして皇帝フランツ2世の29歳の誕生日である1797年2月12日、ウィーンのブルク劇場において、フランツ2世臨席のもとでオーケストラ伴奏によって初演された[3]。初演後まもなく、ハイドンと交流があったチャールズ・バーニーが、歌詞を英訳してイングランドで紹介し、好評を博した[5]。
歌詞
要約
視点
初演以降、この歌は歌詞が何度か変えられている。「皇帝賛美」というコンセプトは同じであるが、フランツ2世の時だけでも2度変えられており、皇帝の代替わりの際に歌詞が変えられることがあった。
初稿(神聖ローマ帝国版)

各節の最後にある "Gott erhalte ...." (神よ、皇帝フランツを守り給え 我らが良き皇帝フランツを!)は繰り返す。
(ドイツ語歌詞)
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(日本語訳)
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改訂版(オーストリア帝国版)

各節の最後にある "Gott erhalte ...." は繰り返す。
(ドイツ語歌詞)
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(日本語訳)
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1835 - 1848年版(フェルディナント1世治世)

ヨーゼフ・クリスティアン・フォン・ゼドリッツの作詞による。
(ドイツ語歌詞)
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(日本語訳)
1.オーストリアの高貴なご子息に祝福を、 2.すべての贈り物を 3.掌で御頭を包みたまえ、 4.平和と調和が支配するように、 |
1854 - 1918年版(フランツ・ヨーゼフ1世・カール1世治世)


1848年革命の影響でフェルディナント1世が退位すると、再び「フランツ」の名を持つ、フランツ・ヨーゼフ1世の治世が到来した。そのため「神よ、皇帝フランツを守り給え」から始まるフランツ1世治世時の歌詞がまた用いられるようになった。これがおよそ6年間続き、1854年にヨハン・ガブリエル・ザイドルの作詞による新たな歌詞が付けられた。
(ドイツ語歌詞)
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(日本語訳)
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1854年の改訂によって、皇帝の個人名が含まれていない一般的な内容による歌詞になった[6]。ただしフランツ・ヨーゼフ1世がエリーザベトを皇后に迎えた後に加筆された5番、ルドルフ皇太子の誕生後に加筆された6番には、個人名が含まれている。
第一次世界大戦のさなかにカール1世が皇位を継承すると、歌詞を改訂しようとする動きがあったが、その前にハプスブルク帝国は敗戦とともに瓦解した。すなわち、カール1世の治世下では最後までフランツ・ヨーゼフ1世の時の歌詞が用いられた。1989年4月1日に催された最後の皇后ツィタ・フォン・ブルボン=パルマの葬儀と、2011年7月16日に催された最後の皇太子オットー・フォン・ハプスブルクの葬儀でも、この「1854年版」の第1番が唱和されている。
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共和制移行後

最後の皇帝カール1世が1922年に亡命先のマデイラ島で崩御した後、その遺児である元皇太子オットーを「オーストリア皇帝」と仰ぐ王党派によって、ハイドンの旋律に新たな歌詞が付けられた。
(ドイツ語歌詞) |
(日本語訳) |
オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後に成立した第一共和国は、帝政時代の国歌を受け継がず、共和国初代首相カール・レンナーの作詞、ヴィルヘルム・キーンツルの作曲による『輝かしき国、ドイツ・オーストリア』を国歌とした[6]。
しかしこの曲はあまり国民に受け入れられず、1930年にはハイドンの皇帝讃歌の旋律にオットカール・ケルンシュトックの詩『永遠に祝福を受けよ』を乗せたものを国歌とするという布告が出された[6]。第二次世界大戦後、それまでの国歌の使用が連合国によって禁止され[6]、結果的にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの作曲とされる旋律を用いた『山岳の国、大河の国』が制定されたが、再びハイドンの曲をオーストリア国歌の位置に戻す努力もなされた。
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編曲など
- ハイドン自身の弦楽四重奏曲第77番「皇帝」
- ジョン・ニュートンの歌詞による讃美歌『栄えに満ちたる』
- ヨハン・シュトラウス2世の『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』、ワルツ『ミルテの花冠』、行進曲『ハプスブルク万歳!』
- カール・ミヒャエル・ツィーラーのワルツ『皇后』
- カール・ミュールベルガーの軍楽『皇帝猟兵行進曲』(Kaiserjägermarsch、原題は『我は皇帝猟兵の一員』を意味する Mir sein die Kaiserjäger)
- スメタナの『祝典交響曲(Festive Symphony)』
- バルトークの交響詩『コシュート』
- ヴィエニャフスキのヴァイオリン練習曲集「新しい手法(L'École Moderne, Études-Caprices)」の終曲は、この曲を主題とした変奏曲である。練習曲と標榜されてはいるものの、超絶技巧に終始する難曲である。
- シルヴィオ・ラニエーリのマンドリン独奏曲『ハイドンの主題による変奏曲(Variazioni su un tema di Haydn)』
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脚注
参考文献
関連項目
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