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祥啓

室町中期の画僧 ウィキペディアから

祥啓
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祥啓(しょうけい、生没年不詳)は、室町時代中期から後期にかけて活躍した画僧禅僧賢江祥啓(けんこうしょうけい)とも。字は賢江、号は貧楽斎。建長寺の書記役にあって、通称は啓書記[1]。僧名は元英祥啓。雪村と並び、室町後期の関東を代表する画人である。

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「山水図」 根津美術館蔵

生涯

下野丸良氏の生まれという[2]鎌倉五山第一位である建長寺塔頭宝珠院の書記を務めていたため「啓書記」、または「貧楽斎」と呼ばれた。はじめ仲安真康に絵を学んだと伝わる。文明10年(1478年)上京し、芸阿弥に師事する一方、東山御物唐絵に学んだ。帰郷に際し、芸阿弥から画法伝授の証として「観爆図」(根津美術館蔵、文明12年(1480年)筆、重要文化財)を与えられている。

明応2年(1493年)再度上洛、相国寺に住し、横川景三景徐周麟黙雲龍沢正宗龍統など多くの五山文芸僧と交流を重ねると共に、あらためて御物の中国絵画を学習した。基本的には周文様式に踏襲しつつも、更に雪舟風や狩野派の絵に学ぶところもあったといわれる。祥啓はこうした中央の清新な画風を学び、それを自己の様式として咀嚼し、祥啓様式としてのバリエーションを作ることによって、同時代の狩野正信小栗宗湛・宗継らと並び、中央で流行した新様式の正系を担う一人となった。更にこの新画風を関東画壇に伝え、指導的役割を果たした。祥啓最後の事績は大永3年(1523年)まで分かっている。

最初の上洛時、場所は不明だが「貧楽斎」という書斎を与えられ、貴重な御物の閲覧を許されるといった厚遇を受けている。これは都鄙和睦が背景にあり、祥啓は関東側の何らかの使命、室町将軍家の文化を視察する文化特使的な役割を帯びて上洛したと考えられる。二回目の上洛も明応の政変と同年であり、何らかの関係があった可能性が指摘される[3]

当時の画僧にしては珍しく、「風流な禅僧」(万里集九『梅花無尽蔵』)「敏にして多芸」(月翁周鏡『貧楽斎詩叙』)といった人柄が伝わる史料が残っている。遺作は20数点ほど伝わっており、山水画では夏珪様の楷体水墨画が殆どをしめる。弟子に啓孫興悦僊可など。

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代表作

およその編年順[4]

祥啓画中、現存唯一の横掛け軸作品として貴重。
その他
複数の画人による工房作で、祥啓の活動期間よりもさかのぼる時期の作であるとの説もある[6]
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脚注

参考資料

関連項目

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