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祭祀遺跡

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祭祀遺跡(さいしいせき)は祭祀に関する遺跡を指す考古学用語。神道考古学、あるいはそれを発展させた祭祀考古学の主な対象である。

定義 

神道考古学を大成した大場磐雄は祭祀遺跡を「神祭りを行ったことを考古学上から立証し得られる跡」と定義し[1]、これは各時代にわたって存在するが、とくに古墳時代のものを「狭義の祭祀遺跡」と呼んだ[2][注釈 1]小野真一は祭祀遺跡を立証する要件として祭祀遺物の発見、遺構の存在、祭祀の対象物(祭祀を行う場所としての環境条件)の存在の3点を挙げている[4]

大場は祭祀遺跡を分類して、

A 遺跡を主とするもの
自然物を対象とする遺跡
山岳・巌石・樹木・湖沼池泉・海洋島嶼等
古社の境内及び関係地
墳墓
住居跡
B 遺物を主とするもの
祭祀遺物の単独出土地
子持勾玉発見地
土馬発見地
C 遺物の発見されないもの

とした[5]

乙益重隆は、祭りを行った状態がそのまま残っている例はほとんどないという点を踏まえて、大場の「祭祀遺跡」は「祭祀関係遺跡」というのが正しいと指摘している[6]

各時代の祭祀遺跡

縄文時代

草創期には以降は確認されていないが上黒岩岩陰遺跡の線刻礫(岩偶)がある[7]

早期には各地で集石土壙墓が出土し、遺物としては土偶土板が出現する[8]

前期には配石遺構(阿久遺跡など)が確認されており、当時の人々の石への観念が考察されている[9]。遺物としては南関東で立体的土偶が出現し始め、また男根状石製品が出土するようになる[10]。石製装飾品も現れる[10]

中期になると単位集石・石材の規模が大きくなり、配石の種類も豊富になる(樺山遺跡千居遺跡など)[11]。土偶には顔面を表現するものが出始め、石棒・男根状土製品や匙形土製品、ミニチュア土器などの各種遺物も出現する[10]

後期には大湯遺跡のような環状配石が出現する[12]。土偶が北海道から九州にまで及ぶようになり、動物形土製品も作られていく[13]。玉類や独鈷石も作られる[13]

晩期には規模・数が縮小する[14]遮光器土偶が出現し、その他遺物も引き続き製作される[15]

弥生時代

弥生時代になると配石遺構や土偶などの遺物のほとんどが見られなくなるが、山岳信仰桜ヶ丘遺跡など)、岩石信仰須玖遺跡群など)の観念は継続しているとみられる[16]

古墳時代

山岳信仰がなお継続し、赤城山(櫃石)、富士山(滝戸遺跡など)、三倉山(洗田遺跡)、三輪山(山ノ神遺跡など)など各地で祭祀遺跡が確認されている[17]神坂峠など「峠の祭祀遺跡」も東山道沿線を中心に存在する[18]。平野や水中、海浜・島嶼(沖ノ島など)にも遺跡が存在する[19]

歴史時代

仏教の影響で山岳信仰は変容したが、なお各地で祭祀遺跡が見られる[20]。水霊信仰が盛んになり、水中に遺物を投入したものが発見されている[21]。これらは人里離れたところに位置するが、一方で集落地での祭祀も確認できる[22]

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研究史

要約
視点

近世以前

扶桑略記天智天皇7年(668年)の記事などの古代の文献に、石銅鐸銅矛などが出土して神秘的なものとして扱われたことが記録されている[23][24]

江戸時代になると藤貞幹が『好古日録』に銅剣・銅矛、木内石亭が『雲根志』(1801年)に石棒独鈷石などの石器・石製品を紹介しているが、必ずしも祭祀遺物として扱っているわけではない[25]。さまざまな文献に銅鐸に関する記述も残されたが、「宝鐸」と呼称する点で宝器という考えがあったと思われるものの祭祀との関係はまだ考えられていなかった[26]上野国伊勢崎藩士の関重巍が『古器図説』(写本、1798年記)で古代の祭祀場から土器と臼玉が出土したことを述べており、このころから祭祀遺跡の存在が認識され始めた[27]

明治時代

明治4年(1871年)の太政官布告により「古器旧物保存方」が発布され、遺物への関心が高まる[27]。1875年には石上神宮禁足地の発掘があり、これは祭祀遺跡発掘の嚆矢となった[27]。1888年には江藤正澄沖ノ島に渡り多数の祭祀遺物の発見を学会に報告している[28]。1900年の大野延太郎による「安房国安房郡東長田村遺跡ニ付テ」[29]は日本最初の祭祀遺跡の報告書として知られる[28]

大正時代

明治末から大正初期にかけて神籠石が軍事遺跡であるか祭祀遺跡であるかという「神籠石論争」が発生した[28]。またこの時期には津田敬武が『神道起源論』(1920年)で神道史の考察に考古資料を導入、高橋健自が『銅鉾銅剣の研究』(1925年)でこれらの青銅器の一部が古代祭祀の遺品で出土地も祭祀に関係すると述べた[30]柴田常恵は『日本考古学』(1924年)のなかで「祭祀阯」を遺跡の一つとして解説し、鳥居龍蔵は日本の巨石遺跡を信仰遺跡と考えヨーロッパなどの遺跡と比較した[31]

昭和時代前期

柴田、鳥居らの研究が受け継がれ、祭祀遺跡が学界で市民権を得ていく時期であった[32]

大場磐雄洗田遺跡の調査以来、祭祀遺跡の研究を進めていき、1943年に集大成となる『神道考古学論攷』[33]を刊行する[34]。同書は神道考古学に関する文献であるが、その中で祭祀遺跡・祭祀遺物が重要な対象物として位置づけられた[35]

昭和時代後期

終戦後の昭和20年代には、墓地か祭祀遺跡かで議論となった大湯環状列石や剣形木製品が出土した登呂遺跡の調査によって祭祀遺跡の研究が始まった[36]。この時期には大場磐雄、駒井和愛江坂輝弥後藤守一小林行雄軽部慈恩など各地の研究者が各時代の祭祀遺跡に関する論考を発表している[37]

昭和30年代には20年代の成果に基づいて各時代の祭祀遺跡の解説が「講座モノ」の書籍や考古学の辞典などで執筆されていく[38]。続く昭和40年代から50年代には開発ブームによって発掘調査が増加し、各時代の祭祀遺跡の資料も蓄積していった[39]。1970年に大場磐雄は学位論文をもとにした『祭祀遺蹟』[40]を上梓、1981年には監修者であった大場の死を挟みながら『神道考古学講座』全6巻[41][42][43][44][45][46]の刊行が完結した[47]

平成時代以降

1994年、椙山林継は「祭祀考古学会」を設立し、神道考古学を発展させた「祭祀考古学」を提唱する[48][49]。祭祀考古学は大平茂笹生衛らによって発展された[50]

2017年には「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群世界遺産に登録された[51]

脚注

参考文献

関連項目

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