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福原就理

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福原 就理(ふくばら なりまさ/なりただ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏家臣で長州藩士。父は福原就俊[2]

概要 凡例福原 就理, 時代 ...

生涯

要約
視点

天文10年(1541年)頃[1]に、毛利氏庶流の福原氏の一門である福原就俊の子として生まれる[2]

初めは毛利元就小姓として仕えたが[2]、就理がまだ幼名の「才鶴丸」と名乗っていた頃から毛利氏当主である毛利隆元の嫡男・幸鶴丸(後の毛利輝元)近習として仕えた[3]。就理が生まれた福原氏は毛利氏本宗家をほぼ一貫して支えてきた有力庶家であり、将来の輝元権力を支える重要な勢力として福原氏の若者を輝元の側に配することが必要と考えた元就や隆元が、年齢や才能を考慮して、就理を輝元の近習に選んだと推測されている[1]

また、幼少期の輝元が就理に対して、小鳥を捕らえるための「鳥もち」[注釈 1]を所望したり、百舌鳥を捕ってくることを依頼した書状が残っている[5]

弘治2年(1556年8月29日には毛利隆元から安芸国西条熊野15石の地を知行地として与えられた[6]。この時点で幼名の「才鶴丸」ではなく「弥七郎」と呼ばれていることから、弘治2年(1556年)以前に元服しており、元服の際には元就から「就」の偏諱を与えられて「就理」のと名乗ったとされる。

なお、毛利輝元が幼名の「幸鶴丸」を名乗っている時期に就理に宛てた書状が4通残っており、その内の1通は宛名が「弥七郎」、残りの3通は宛名が「才鶴丸」または「才鶴」となっている[7]。そのため、「才鶴丸(才鶴)」宛ての書状は弘治2年(1556年)以前のものとも考えられるが、弘治2年(1556年)時点の輝元は数え年4歳であることから、輝元は就理が元服してからもしばらくは慣れ親しんだ「才鶴丸(才鶴)」の名で呼んでいたとも考えられている[8]。一方で宛名が「弥七郎」となっている書状が書かれた年は不明だが、毛利隆元が死去した永禄6年(1563年)8月以降のものと推測されている[8]

永禄4年(1561年10月11日に父・就俊が死去し、その後を継いだ[2]。輝元が成長してからも就理は側近として仕え、毛利家中の知行割や書状の取次等を行っている[2]

元亀2年(1571年5月11日、毛利輝元から周防国熊毛郡嶋田庄において27石の地の内の7石を社役として除いた20石を給地として与えられ[9]、元亀3年(1572年2月2日には毛利元清(穂井田元清)から嶋田庄の内の兼清名で田3を与えられた[10]

元亀4年(1573年1月1日に毛利輝元から「孫兵衛尉」の官途名を与えられた[11]

天正5年(1577年1月17日、毛利輝元から長門国大津郡倉小田村の内で、楊井弥五郎の先給地であった25石の地を与えられる[12]

天正8年(1580年7月3日付けの吉川元長の書状により、美作国岩屋城を落城させ、宮山城篠向城を奪取した旨の報告を受ける[13]

天正15年(1587年)から実施された毛利領国内の惣国検地において、就理は検地奉行を務めた[14]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が長門国と周防国に減封されると、就理は度々江戸にも出仕しつつ、引き続き輝元に側近として仕えた[2]

慶長15年(1610年11月13日に70歳余で死去[2]。子の福原元置が後を継いだ[2]

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逸話

  • 年不詳5月4日、幕臣の真木島昭光から、端午の節句の祝いとして毛利輝元に御帷を進献したいが、輝元の出陣等で忙しさでかえって迷惑かと遠慮しているので、然るべき頃合いで取り成して内々に輝元に披露して頂きたいとの依頼を受ける[15]

脚注

参考文献

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