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私擬憲法

明治時代の大日本帝国憲法発布以前に、民間で検討された憲法の私案 ウィキペディアから

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私擬憲法(しぎけんぽう)とは、明治時代大日本帝国憲法発布以前に、民間で検討された憲法の私案のこと。

概要

現在60以上の存在が知られている。もっとも古い私擬憲法は、明治3年(1870年)10月、佐賀藩士江藤胤雄の起草による『国法会議案、附国法私議』で、次で青木周蔵の起草による『大日本政規』明治5年(1872年)、宇加地新八の『建言議院創立之議』明治6年(1873年)などが挙げられる。明治12年(1879年)に、共存同衆嚶鳴社によって私擬憲法の起草が全国に先駆けて始まり、とりわけ「嚶鳴社憲法草案」は、その後の各地の私擬憲法の起草に大きな影響を与えた。[1]国会開設運動の高まりに伴い、国会開設の前提となる憲法の必要性が認識されるようになり、明治13年(1880年)11月の国会期成同盟第2回大会で、翌明治14年(1881年)に憲法草案を持参することを決議した。

板垣退助は私擬憲法の作成意図について『我國憲政ノ由來』で次のように述べている。

國家ノ根本法タル憲󠄁法ハ、君主ト人民トノ一致ニ基イテ定ムヘク、國約󠄁󠄁法トハ之ヲ謂フナリ、卽チ知ルヘシ國約󠄁󠄁法ハ君民同治ノ神󠄀髓ナルコトヲ。故ニ苟クモ我國ノ憲󠄁法ヲ制定セント欲セハ、先ヅ憲󠄁法制定ノ爲メノ國民議會ヲ開カザル可カラズト。蓋シ政府黨ハ專ラ口ヲ大權ニ藉リテ、他ヲシテ一辭ヲ措クノ地ナカラシムト雖モ、其眞意󠄁ヲ叩ク時ハ閥族ノ專橫ヲ擁護スルニアリテ、政府萬能主義ヲ鼓吹スルニ過󠄁ギズ、民間黨ガ眞ニ皇室ノ安泰ト人民ノ福󠄁󠄁ヲ慮リ、コノ金甁無缺ノ國家ヲ永遠󠄁ニ維持センガ爲メニ、萬世不易ノ根本法ヲ定メントスルト、自ラ其選󠄁ヲ異ニスルモノアリ。國約󠄁󠄁法ハ卽チ君民ノ道󠄁德的󠄁󠄁合ヨリ生スル者󠄁ニシテ、天皇ガ輿論ヲ嘉納󠄁シ給フヲ示スト同時ニ、國民カ大權ヲ尊󠄁重スルヲ示スモノ、而カモ政府黨ハ殊更󠄁ニ之ヲ曲解シテ、誣フルニ大權ヲ度外視󠄁スルヲ以テス。民間黨ハ之ニ對シテ其暴論ヲ憤ルト共ニ、深ク社󠄁鼠城狐ノ薰シ難󠄀キヲ嘆󠄀セズンバアラザリシナリ。『我國憲政ノ由來』板垣退助[2]

これらを受け翌明治14年(1881年)に多数の私擬憲法がつくられた。内容は案によって様々で、人民主権、議院内閣制を主張する穏健なものから、抵抗権や革命権(東洋大日本国国憲按)を容認し、国民投票皇帝を廃立する権利を規定する過激なものも存在した。

明治20年(1887年12月26日に制定、発布され、即日施行された保安条例によって、私擬憲法の検討及び作成は禁じられた。これにより、私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されることはなく、『大日本帝国憲法』に直接反映されることはなかった。

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主な私擬憲法

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脚注

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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