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秋山理敏

日本の外交官 ウィキペディアから

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秋山 理敏(あきやま まさとし、1897年明治30年〉4月12日[1] - 1947年〈昭和22年〉9月29日[2])は、日本外交官。駐パナマ公使を経て、第二次世界大戦後、終戦連絡京都事務局局長を務めた。

経歴

長野県上伊那郡藤沢村(現伊那市)出身。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)を経て、1920年大正9年)、東京高等商業学校を卒業し、高等試験外交科に合格した。外務属となり、1922年(大正11年)には東京商科大学(現在の一橋大学専攻部領事科を卒業した。領事官補、外務事務官・通商局第一課勤務、イタリア大使館イタリア語版三等書記官、同二等書記官、通商局第三課勤務・外務大臣秘書官、外務書記官・大臣官房電信課長、企画庁調査官・総裁秘書官、企画院書記官、中華民国大使館一等書記官、シドニー総領事を歴任。1941年(昭和16年)、駐パナマ公使に任命され、コスタリカニカラグアの公使も兼ねた。1942年(昭和17年)に帰国し、同年12月に外務省内に新設された戦時調査室に異動[3]

日本の降伏後は、1945年(昭和20年)から終戦連絡京都事務局局長を務めた[4][5]

栄典

勲章

脚注

参考文献

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