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立花寛治

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立花寛治
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立花 寛治(たちばな ともはる、1857年10月22日(安政4年9月5日[1])- 1929年昭和4年)2月5日[1][2])は、日本の農業指導者、政治家華族貴族院伯爵議員。幼名・径丸[3]

概要 生年月日, 没年月日 ...

経歴

第12代柳河藩主・立花鑑寛の二男として生まれる[1]慶応4年8月1868年9-10月)立花家一門の立花大学家の養子となるが、1873年1月に兄・鑑良が病死したため、1874年2月14日、実家に復籍[3]。同年12月28日、父の隠居に伴い家督を相続した[1][3]1884年7月7日、伯爵を叙爵した[4]

同人社学習院で学んだ[2][3]。農学による富国の実現を志し、津田仙の学農社農学校に入塾した[5][6][7]1885年9月1日、三田育種場長補に就任したが、翌年に育種場は廃止された[8]1887年、宮内省に農業で報国したいとの意思を伝え、旧領地帰郷の特別許可を得る[9]福岡県山門郡中山村(現柳川市)に中山農事試験場(立花家農事試験場)を設立し、作物の試験栽培、種苗交換会・農談会の開催、出版物の刊行などを行い、地域の農業振興に寄与した[6][7][10]1889年、貫属を変え柳川に移住[11]1915年、農事試験場は立花農場と改称[6]。また、水産・農産の缶詰製造を行う興産義社の育成にも尽くした[7]

1890年7月10日、貴族院伯爵議員に選出され、1904年7月まで2期在任した[2]。その他、東京府下谷区会議員などを務めた[2]

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著作

  • 『内外果樹便覧 : 附・有用植物略説』立花寛治、1891年。
  • 『穀菜栽培便覧』立花寛治、1891年。

家族

脚注

参考文献

関連項目

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