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第502重戦車大隊

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第502重戦車大隊
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第502重戦車大隊(ドイツ語: Schwere Panzer-Abteilung 502)は、ドイツ国防軍陸軍に存在した重戦車大隊である。初めてティーガーIを受領し部隊編成した大隊であり、東部戦線を中心に1400両以上の戦車を撃破する戦果を上げた。

概要 第502重戦車大隊 Schwere Panzer-Abteilung 502, 創設 ...

概要

要約
視点

編成

1942年5月25日バンベルクにおいて第35戦車訓練大隊から派生する形で組織された。

第502重戦車大隊が組織されて間もない7月23日アドルフ・ヒトラーティーガーIレニングラードに投入するよう命令を発した。この命を受け、8月19日20日の2日にかけて4両のティーガーIが大隊に配備された[1][2]8月29日に大隊はレニングラードに到着、初めてティーガーIが実戦投入された。

運用

第502重戦車大隊のティーガーIは1942年9月16日ラドガ湖南部で初めて戦火を交えた[3]。しかし、9月22日に大隊のティーガーIは悪路で立ち往生するなどしたため敵の砲撃を受けてしまい、このうち1両が回収不可能となってしまった。このティーガーIは敵側に情報が渡るのを防ぐため、11月25日に破壊されている[1]9月25日には新たなティーガーIやIII号戦車などが到着し、大隊は立て直された。

1942年12月になると、それまで第1中隊のみであった第502重戦車大隊に新たに第2中隊が編成されたが、第1中隊とは異なりドン軍集団戦区に派遣された[4]。この第2中隊は翌1943年1月末頃に、同じ戦区に派遣されていた第503重戦車大隊に第3中隊として編入された[4]

1943年1月14日イスクラ作戦を展開中だったソ連軍が第502重戦車大隊のティーガーIを1両撃破し、鹵獲した。さらにその数日後、もう1両のティーガーIも鹵獲されている。2両のティーガーIは即座にクビンカ装甲車両中央研究所に運ばれ、対抗手段を得るために徹底的に研究された。

1943年4月1日、第1中隊のみとなっていた第502重戦車大隊に第2中隊と第3中隊が組織された。5月後半までに大隊には31両のティーガーIが配備されており、前述のような戦果を上げる要因となった。6月に重戦車大隊の部隊編成に変更があり、第502重戦車大隊第1中隊もそれまでのティーガーIとIII号戦車の混合形態から、ティーガーIのみの編成へと変化している。

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第502重戦車大隊のティーガーI。(ラドガ湖付近、1943年8月)

第502重戦車大隊は1943年7月から9月までラドガ湖付近に[5]、11月から12月はネヴェルに拠点を置き、レニングラードから退却するドイツ軍の援護を行った。1944年2月からはナルヴァ軍集団としてナルヴァの防衛に当たった[6]。4月にはプレスカウに、7月にはダウガフピルスに移り戦闘を繰り広げた[7][8]

ティーガーIIも第502重戦車大隊に配備されたが、終戦間際でもありその数は僅か8両にとどまっている[9]

再編

1945年1月5日、第502重戦車大隊は第511重戦車大隊(ドイツ語: Schwere Panzer-Abteilung 511)に再編された。ティーガーIIが不足していたため、ティーガーIやヘッツァーなどが補填に回されている。大隊は独ソ戦に従軍したが4月27日に解散し、5月9日にソ連軍へ降伏した[10]

第502重戦車大隊は大戦を通じて105両のティーガーIと8両のティーガーIIが配備され、1,400両以上の敵戦車、2,000門以上の敵火砲を撃破した[11][12]

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歴代司令官

  • メルカー少佐 (1942年8月 - 11月)
  • ヴォルシュラーガー大尉 (1942年11月 - 1943年2月)
  • リヒター少佐 (1943年2月 - 7月)
  • シュミット大尉 (1943年7月 - 8月)
  • ラング大尉 (1943年8月 - 10月)
  • ヴィリー・イェーデ少佐 (1943年10月 - 1944年3月)
  • シュヴァナー少佐 (1944年3月 - 8月)
  • フォン・フェルスター大尉 (1944年8月 - 1945年4月)

脚注

参考文献

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