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織田貞幹

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織田 貞幹(おだ さだもと)は、江戸時代前期から中期にかけての尾張藩家老茶人官位従五位下周防守

概要 凡例織田貞幹, 時代 ...

生涯

織田信次の子として誕生した。父・信次は織田信長の九男・織田信貞の長男であったものの、病弱のため弟の貞置に家督を譲った。貞幹は叔父の旗本・貞置の養子となり、貞置から有楽流を学んだ(尾州有楽流)。

後に尾張藩2代藩主・徳川光友に召し出されて、尾張藩士になった。始めは光友の嫡子・綱誠の小姓となり、100石を与えられた。次第に加増されて最終的には4000石になった。元禄9年(1696年)7月3日、国家老となる。宝永4年(1707年)12月23日、従五位下・周防守に叙任される。享保3年(1718年)7月25日に隠居し、長男の長恒に家督を譲る。以後、巻有と号する。なお、山崎闇斎の弟子・佐藤直方朱子学を学んだ。

享保6年(1721年)7月25日死去。享年69。戒名は雲岱院岫巖巻有。菩提寺は、名古屋市中区總見寺

系譜

子女は3男4女。

長男の長恒は家督を相続、次男の長居は分家した。

脚注

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