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耶律綿思哥
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耶律 綿思哥(やりつ メンスゲ[1]、生没年不詳)は、初期のモンゴル帝国に仕えた政治家。モンゴル帝国建国の功臣の一人、耶律阿海の息子にあたる。
概要
チンギス・カンの在世中、耶律阿海・耶律禿花兄弟は東西に分かれ、禿花が東アジア方面の経略に従事したのに対し、阿海は中央アジア遠征に従軍してセミスケント(サマルカンド)の長官を務めていた[2]。
阿海の没後、綿思哥が「太師」の称号とセミスケントの長官職を継承したが、やがて東方に移住して「中都路イェケ・ダルガチ(也可達魯花赤)の地位に就いた[2][3]。このころ、旧金朝領華北はモンゴル諸侯の投下領として細分されており、各モンゴル諸侯は領地の監督のためにダルガチ(王檝・李秉など)を燕京等処行尚書省に派遣していた[4]。イェケ・ダルガチ(=大ダルガチ)と称する綿思哥は、これら各諸侯が派遣するダルガチを取りまとめ、それぞれの権益と紛争を調整する役目を担っていたとみられる[4]。
また『析津志輯佚』「学校」条では、オゴデイ・カアンが1233年(癸巳)に「四教読(モンゴル人の子弟に漢文を学ばせる機関)」を命じた対象として、ドロアダイ・石抹咸得卜らとともに綿思哥の名が挙げられている[5][6]。それからまもなく綿思哥は亡くなり、息子の耶律買哥が「中都の職(イェケ・ダルガチ)」を継承している[7][8]。このほかに、同じ1233年に出された「太宗皇帝五年癸巳聖旨(「大元馬政記」に所収される)」にも、チンカイ・耶律朱哥・石抹咸得卜・劉黒馬・石抹忽篤華らとともに綿厠哥(=綿思哥)の名が挙げられている[9]。
なお、『孔子祖庭広記』所収の記事には「朝廷大断事官 丞相耶律田山」なる人物について言及され、「前遼国耶律郡王の子」であったと述べる[10]。この文書で耶律田山の同僚としてあげられるシギ・クトク、オルブはそれぞれ燕京行省におけるドロアダイ・石抹咸得卜の後任者と推定され、耶律田山も綿思哥の息子でありかつ後任であったと考えられる[11]。同史料によると、耶律田山は金朝滅亡後の1237年(丁酉)11月26日に孔子の末裔である孔元措と面会し、孔家を始めとする儒家が仏教・道教と同様に免税措置を受けられるよう計らったとされる[12]。
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桓州耶律家
撒八児 (Sābāér) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脱迭児 (Tuōdiéér) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
禿花 (Toγan) | 阿海 (Aqai) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
買住 (Baiǰu) | 朱哥 (J̌üge) | 捏児哥 (Nerge) | 綿思哥 (Mensge) | 忙古台 (Manγutai) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明安歹児 (Mingγandar) | 忽林帯 (Qurmtai) | 国楨 (Guózhēn) | 禿満答児 (Tümender) | 百家奴 (Bǎijiānú) | 宝童 (Bǎotóng) | 買哥 (Maige) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忙古帯 (Manγutai) | 驢馬 (Lǘmǎ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
火你赤 (Qoniči) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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脚注
参考文献
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