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三条実教
戦国時代の公家 ウィキペディアから
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三条 実教(さんじょう さねのり)は、戦国時代の公家。内大臣・正親町三条公兄の子。官位は従四位上・左近衛中将。
経歴
天文7年(1538年)三条家分家の正親町三条家当主である正親町三条公兄の子として誕生した。母は加賀介藤原某(富樫氏と言われる)の娘。
天文20年(1551年)先代の当主・三条公頼が庇護を受けていた大内義隆と共に殺された後(大寧寺の変)、実子のなかった公頼の養子という形をとって13歳で三条家の跡を継いぐ。同年叙爵すると、まもなく正五位下・侍従に叙任される。のち、従四位上・左近衛中将に至ったが、天文23年(1554年)16歳で早世した。
実教の死後、三条家はいったん断絶し、永禄12年(1569年)に至って正親町三条家の分家三条西家の当主・実枝の子である実綱が再興した。
三条家の当主は、実行→公教→実房→公房→…と「公」と「実」の通字を1代ごとに交互に付けていく慣行であり、実教の次の当主が実綱を名乗ったことは、実教が三条家の歴代当主から抹殺されたことを意味する。なぜそのような措置がとられたのか、理由は不明である。
なお、江戸時代に入って、花園家を創始した花園公久と、小倉家を再興した小倉公根は、表向きは公兄の孫・実教の子ということになっているが、いずれも実教の死後20年以上も過ぎた天正年間の誕生であって、実際には実教の子ではない。公久・公根兄弟の実の父親は、正親町三条家の血縁者と推測されるが、何者なのかまったくわかっていない。
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官歴
『諸家伝』による。
系譜
参考文献
- 正宗敦夫編『諸家伝』日本古典全集刊行会、1940年
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