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蒲原沢土石流災害
長野県小谷村で1996年に発生した土石流災害 ウィキペディアから
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蒲原沢土石流災害(がまはらざわどせきりゅうさいがい)は、新潟県と長野県境に位置する小谷村蒲原沢で1996年に発生した土石流災害である[1][2]。前年に起きた豪雨災害の復旧工事に従事していた作業員14名が死亡したこの災害はその後、土石流発生が予見できたかどうかについて遺族と国の間で争われた[3][4]。


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7.11水害
前年の1995年夏、後に7.11水害と呼ばれる集中豪雨災害が発生した[5]。特に姫川水系上流部の被害が激しく、氾濫により姫川に沿って通っていた道路や線路上を流れる濁流がスノーシェッドを転覆させ、多くの箇所で道路や線路の法面が崩壊した。交通手段を失った新潟県糸魚川市平岩地区では500人以上がヘリコプターで救出される事態となった。
蒲原沢でも上流から流れ落ちる濁流により河道がえぐられ、前年に完成したばかりの国道148号国界橋(ラーメン橋)が流失した[6]。林野庁と建設省および長野県は、荒廃した蒲原沢に対して、治山工事、砂防工事、そして流失した国道橋梁を新たに架け直す工事を行うこととした[2][7]。
土石流災害の発生
要約
視点
1996年12月6日の午前10時40分ごろ、蒲原沢の上流、標高 1,350m付近の右岸(長野県側)と600m付近の2箇所に[1]、既にあった崩壊地の上部山腹で崩壊が発生し土石流となって流下した[2]。不安定な渓床堆積物と渓岸を侵食した約39,000m3の土砂が[8]、高さ3m、推定流下速度27m/秒[8]の勢いで、2基の谷止工、2基の砂防ダムを乗り越え、31,000m3の土砂[8]が沢の下流域にあった作業現場を襲った。当日は68名が沢の各所で作業を行っていたが、流路で作業中だった作業員が流され、14名が死亡し9名が負傷した[9]。なお、この土石流による振動は防災科学技術研究所の地震観測点(小谷中小谷 NGNH55)で観測され、流下継続は3分間でM=0.05 相当のエネルギーであった[9]。
※当日の作業状況。上流より記載[10]。
捜索と工事再開
自衛隊の災害派遣や緊急消防援助隊として東京消防庁のハイパーレスキューや名古屋市消防局の救助部隊なども出動して,1,600人規模の捜索体制が敷かれた[2][11][12]。流出した大量の土砂やショベルカー及びクレーン車の残骸、2次災害の危険性に捜索は難航したが、12月14日までに13人の遺体を収容[13][14]。その後捜索を一旦中断したが、翌1997年春に捜索を再開し同年5月16日に最後の行方不明者の遺体を発見した[15][16]。
工事の再開には、リモコン操作の重機を扱うなど作業員をなるべく沢に立ち入らせない無人化施工が取り組まれた[17]。退避の基準雨量を引き下げたほか、2箇所の監視小屋を設け、視界が悪い場合は作業を中止するようにし、上流部に土石流を検知するワイヤーセンサーを設置、大規模な避難訓練を行った上で、1997年8月22日に工事を再開した[18][19]。
原因
数日前の12月1日から2日にかけて寒波が到来した。気温が下がって雪模様となり、降水量は32mm、積雪は35cmを記録した[7]。前日の12月5日は天気がふたたび下り坂となり24時間で49mmの降水量を観測[9]したが、当日の降水量は 0 であった[9]。低気圧の通過で気温がおよそ10℃上昇したことにより積雪は30cmから7cmに低下した[7]。これらの状況により、前年の7.11水害で崩壊した斜面に降雪と融雪により発生した多量の融水がしみ込み「拡大崩壊(崩壊箇所の周辺が崩れる現象)」に繋がったと考えられている[7][9]。また、渓床の平均傾斜は約18゜と急峻で[1]、1350mの崩壊箇所は勾配が変化する箇所でかつ地質境界があり崩壊が発生しやすい部分であった[1]。
融雪量を加味した24時間換算の推定雨量 109mm/日は、360mm/日だった前年の7.11水害時と比較すると大きい値とはいえない。工事関係者には冬季間の河川工事は水量が少なく作業がやりやすいという認識があり、実際、統計上も冬季間の土石流災害の件数は少なかった[10]。
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補償
1997年(平成9年)2月14日までに糸魚川労働基準監督署は死亡した13人を労働災害と認定し、労働者災害補償保険に基づく遺族特別支給金などを給付した[20]。その後、最後に収容された作業員も労働災害と認定し、遺族に葬祭料や見舞金などが給付された[21]。
関係者の処分
1998年(平成10年)1月6日までに糸魚川労働基準監督署は当時、砂防工事などを請け負っていた元請業者4社と現場責任者ら8人を労働安全衛生法違反容疑で新潟地検に書類送検した[22]。その後、新潟地検は「不十分ながら災害防止措置を取っていた」として起訴猶予処分とした[23]。
損害賠償訴訟
要約
視点
第一審・長野地裁松本支部
1999年(平成11年)11月24日、犠牲となった3人の作業員の遺族が国や長野県などを相手に総額約1億2千万円の損害賠償を求めて長野地裁松本支部に提訴した[24]。
2000年(平成12年)3月22日、長野地裁松本支部(太田武聖裁判長)で第1回口頭弁論が開かれ、国と長野県は「安全配慮の義務は企業が責任を負うべきである」として請求の棄却を求めた[25]。同日の弁論では作業員の遺族2人が「夫の作業場で異常を知らせるサイレンが鳴ったら夫は命を落とさずに済んだはず。どのような安全対策をしていたのか。天災の一言で片付けられる問題ではない」などと陳述した[25]。
2000年(平成12年)5月31日、原告は労働省(現・厚生労働省)などがまとめた事故調査報告書を長野地裁松本支部に提出し、砂防工事などにおける国と長野県の事前調査は不十分で、土石流の再発は予見可能であり、安全配慮義務を怠ったと主張した[26]。
2000年(平成12年)7月12日、国と長野県は原告の主張に対して「国や県と下請業者の労働者との間には、直接の雇用契約はなく、安全配慮義務の必要はない」などと反論した[27]。
2001年(平成13年)11月12日、原告は長野地裁松本支部、国土交通省松本砂防工事事務所及び長野県庁を訪れ、早期解決を求める要請書と約8000人の署名を提出した[28]。
2006年(平成18年)1月25日、最終弁論が行われ、原告は、急傾斜で軟弱な地盤や災害発生までの30日間で地下水が飽和状態であったことを踏まえた上で「災害発生を予見することは可能」と主張した[29]。一方、国と長野県は砂防学会の報告書に基づいて「前日の雨量は少ない上、当時は土石流発生の予測に関する研究が浅く、発生予見は不可能」と主張して結審した[29]。当初、判決は3月29日に予定されていたが、5月10日に延期された[29][30]。
2006年(平成18年)5月10日、長野地裁松本支部(田中治裁判長)は「土石流発生は予見出来ず、過失は認められない」として原告の請求を棄却した[31]。判決では、1969年から1996年の間で報告された土石流災害614件のうち、12月と1月に発生した災害はないことから「事前調査で認識できたとは言い切れない。前日から発生まで40〜50ミリという当時の降水量などからも、予見可能であったとは認められない」として災害発生は予見不可能であったと結論付けた[31]。原告は判決を不服として控訴した[32]。
控訴審・東京高裁
2006年(平成18年)12月4日、東京高裁(江見弘武裁判長)で第2回口頭弁論が開かれ、原告は奥西一夫京都大学名誉教授らが作成した蒲原沢の危険性に関する意見書を東京高裁に提出した[33]。これに対して裁判長は「一般的な危険性を主張するよりも、災害を防ぐことの出来た情報があったかどうかが重要になるのでは」と指摘した[33]。
2008年(平成20年)8月20日、東京高裁(一宮なほみ裁判長)は「当時、土石流の発生の可能性はあったが、抽象的可能性であって、具体的な予見可能性はなかった」として一審・長野地裁松本支部の判決を支持、原告側の控訴を棄却した[34]。原告のうち、2人の作業員の遺族2人は判決を不服として上告した[35]。
上告審・最高裁第三小法廷
2009年(平成21年)2月17日、最高裁第三小法廷(近藤崇晴裁判長)は原告の上告を受理しない決定を出したため、原告の請求を棄却した一・二審判決が確定した[4][36]。
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慰霊碑等
1997年(平成9年)11月21日に蒲原沢左岸(新潟県側)及び国道148号新国界橋姫川側橋詰に慰霊碑が建設された[37]。また、小谷村の常法寺に追悼のため安魂地蔵尊塔及び十四地蔵尊、常願観音が建立された[37]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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